あなたが大きくなるまでは
ありがちなすれ違い話を書きたくて。ハピエンです。
「ミランダ。今しがた国王より婚約解消の便りが届いた……。お前には可哀そうなことをして申し訳ないと思っている」
「はぁ」
ミランダ・マグノリア令嬢、22歳。ノックス王国マグノリア子爵家長女。
今日、この日を持って、皇太子であるカイン王子との婚約を破棄された。
そもそもの始まりは12年前まで遡る。カイン王子5歳の誕生日に婚約者が発表になった。それに選ばれたのがミランダだった。子爵という地位で王家の婚約者になることは極めて稀だったが、理由は一つ、マグノリア家の血にあった。
子爵という爵位からもわかるように決して高貴な身分というわけではない。王妃の血筋でもない。父親が功績をあげたわけでもない。歴史だけは無駄に長くて、王都から少し離れた領地を細々と治める弱小貴族だった。だがマグノリア家は代々“長生きの家系”として知られてきた。
ミランダの祖父は80を超えて未だ現役だし、3年前に儚くなった曽祖父は享年102歳だったし、ミランダから数えて四代前のお祖母様は110歳まで生きたという。
さらに不思議な話には、マグノリアの家の血を引く人間が近くにいれば周囲のものも長寿になるという噂まである始末。高祖母が嫁いだ伯爵家では主人と二人で98まで二人楽しく過ごしたと聞く。そんな「長寿のマグノリア一族」の娘を婚約者にと望んだのはほかでもない王妃陛下だった。
カイン王子はノックス王国の皇太子だが、国王夫妻の第一子ではない。カイン王子の上には王子が二人と姫が一人いたのだが、みな生まれる前から体が弱く、最初の王子は死産、二番目の王子とその次の姫は5つになる前に夭逝された。カイン王子は5歳まで生きた初めての子供だった。
幼い頃のカイン王子は儚くなった兄弟たちと同じように体が弱かったために、四度我が子を失う恐怖に耐えかねた王妃は社交界で遊び半分に語られる噂に頼るまで弱り切り、マグノリア家へ婚約の申し立てを行ったのだった。当時ミランダは10歳。カイン王子より5つも年上だったが、マグノリア家には他に女の子供がいなかった。
初めて王宮に召されて両陛下と王子に謁見した時、ミランダはカイン王子のあまりの儚いお姿にたいそう驚いた。
『美しい金の髪に燃える紅の瞳』。ノックス王家に伝わる黄金の色彩。輝く髪に若々しく燃える炎の瞳をした王とは違い、カイン王子は瞳も髪も今にも消えそうなろうそくのようだった。肌は白く手足も細い王子。ただ長生きだという噂一つで、たった5歳にもかかわらず見ず知らずの身分の低い女を未来の后にあてがわれる王子。恐れ多くもその時ミランダは王子のことをお可哀想に、と思った。
「ミランダといったかな」
不意に王に声をかけられ、ミランダは慌てて返事を返す。
「急な話で申し訳なかった。長寿の家などと、噂でしかないことは私も王妃も理解しているが、幼い王子を思う愚かな親の頼みだと思って受け入れてくれるかい」
そっと見やった王の瞳は切なく細められていた。唇をきゅっと噤んで、心配そうに見る父に微笑み、ミランダは「はい」とそれだけ返事をした。両陛下は満足そうに微笑み、父親もほっと息をついた。顔を上げた先の当の王子は、何が起きたのかもわからないようにただきょとんとしているだけだった。
最初の謁見からひと月後、再び王宮に召し上げられた。今度は懇親会という名目での王妃主催のお茶会だという。必死にめかしこんで母と二人で参内した。
公務に出ている王は不在で、王妃と王子に、王の実妹の内親王殿下とのお茶会は緊張のあまり、まるで味がしなかった。その日の王子は王妃や内親王の話に参加するでもなく、ただぼんやりとクッキーをつまむだけだった。数時間の歓談を経て帰りの馬車に乗った時、ミランダは「そういえば婚約を決めた一回目の時も、今日も、王子と一度も話をしていないな」と気がついた。
カイン王子との三度目の交流はお茶会からさらにひと月後の、王家主催のガーデンパーティーだった。そこで初めて王子の口から婚約者だと親族に紹介をされた。まぁ、侍従の用意した台本をそのまま読んだような棒読みではあったけれど。
「殿下の口からご紹介を賜り心から嬉しく思います」
大人たちの歓談が始まってから、二人しかいない私たち子供は隅のテーブルに引っ込んで取り分けてもらったケーキを楽しんでいた。落ち着いたところで王子に向かって恭しく頭をさげると、王子はいつものきょとんとした顔をした。
「じいに教わった通りに行ったけど、婚約者ってなんなのかわからない」
悪びれもなくそう宣った王子にミランダは思わず苦笑した。仕方ない。王子といえどもまだ5歳なのだから。
「将来殿下と結婚する者のことでございます」
「結婚って?」
「……両陛下のようになるということです」
「父上と母上のように? ずっと一緒にいるってこと?」
そう聞いた王子の顔は普段と違い、ぱっと輝いたようだった。
その顔に、ミランダの胸は確かにきゅんと高鳴った。
「ええ、はい。そうですね。ミランダはこの先もずっと殿下のお側におります」
「そう、婚約者ってそういうことなんだ」
王子はそう嬉しそうにつぶやくと、隣に座るミランダの手をそっと握った。
「じゃあミランダは、姉上のように急にいなくなったりはしないんだね?」
ミランダは心臓がきゅっと縮み上がるのを感じた。
カイン王子の2つ年上の第一王女・アリシア様が亡くなったのは2年前、姫が5歳の誕生日を迎える直前だった。二人の姉弟はとても仲睦まじく、姫は弟王子を非常にかわいがっており、王子も姉姫に懐いていたと聞く。急な病に倒れ帰らぬ人となった姉姫を、王子は黙っていなくなってしまったと考えていたのだと、ミランダはその時初めて知った。両陛下は公務が忙しく、幼い姉弟はいつも二人一緒だったという。大切な片割れが急にいなくなった時、王子はどれだけ寂しかったのだろうか。
シスターコンプレックスとでもいうものか。目の前の婚約者は自分に失った姉を重ねているのだとミランダは思った。そして、そう思われているのなら、それでいいとも思った。ミランダ自身二人の弟を持つ姉だった。恋も愛もわかっていない幼い婚約者に、姉として求められるなら、姉として愛を捧げようと、姉として御身を支えようと思った。
「はい。ミランダは殿下の前からいなくなったりいたしません。望まれる限りお傍におりましょう」
王子の手を握り返してそう誓った。
いつか、王子が真に想う女性を見つけるまで、姉として、仮初の婚約者として、王子の隣を守ろうと決めたのだ。
だからこそ、父親から婚約破棄を聞かされた時にミランダが抱いたのは、ついに引導を渡す時が来たのか、という達成感にも似た感情だった。
「お次のお相手は決まっているのでしょうか」
「話は聞いていないが、殿下の年回りで言うと、イングル侯爵家のキャロライン嬢か、スライリー公爵家のナタリア嬢あたりじゃないかね」
「ああ、お二人とも素敵なお嬢さんですものね」
キャロライン嬢は金の巻き毛が美しく、ぱっちりとした青い瞳が印象的な美少女で、心優しく慈善事業に力を注いでいると聞いたことがある。歳は確か王子の1つ下。そしてナタリア嬢は真っすぐの黒髪に同じく綺麗な黒い瞳が美しく、国内外の知識が豊富な才女だと聞く。こちらは確か王子よりも1つ年上だっただろうか。どちらの令嬢も王妃の座にふさわしい素晴らしい女性だ。まるで他人事のように言うミランダに、父親は心配そうに眉を寄せた。
「ミランダ、お前そんな……辛いだろうに、本当にすまない」
「まぁ、お父様。何がですか? あぁそうだ、婚約破棄の理由は聞いてもよろしいでしょうか」
申し訳なさそうに顔を歪める父親に落ち着いた声で問うた。
カイン王子は今年で17歳。来年、18歳の誕生日を迎え成人になった暁にはミランダと正式に結婚することが婚約した時から決められていた。ミランダはいつでも婚約者の座を譲る気持ちではいたが、もし18歳になるまで王子が別の娘を見初めず、そのままミランダを娶るというのであれば、抵抗なく王妃の座に着く心構えはできていた。そう、なんだかんだと弟だなんて言っていたが、婚約者として過ごす12年の間に、ミランダはしっかり王子に恋としても愛情を抱いていたのだ。
カイン王子は成長するにしたがって、初めて会った時の消えそうなお姿から見違えるように立派で見目麗しい美丈夫へと変わっていた。儚く消えそうだった柔い金髪は輝くように、瞳も父親である国王によく似た燃える炎の色へと変わり、ひょろひょろだと思っていた手足も近衛兵と混ざって鍛錬を積んでいくうちに立派な筋肉がついてたくましい体格になり、身長だっていつもつむじを見ていたと思っていたのにいつの間にやら目線もすっかり上になっていて、気が付いた頃にはすっかり国中の令嬢の憧れの的となっていた。
可愛がっていた弟がすくすく美しい男へと変わっていく様は隣で見ていて恐ろしくもあったが、昔と変わらず姉のように慕ってくれる王子にいつしか心絆され、弟以上の感情を抱くようになるのに時間も理由も必要なかった。
だがミランダが王子に惹かれるように、国中の令嬢も王子に惹かれるのは必然で、いつからかミランダは他の令嬢たちから、とりわけ王子と年回りの近い令嬢たちから目の敵にされるのもまた、必然だった。
ただ「実家が長寿だから」という理由だけで婚約者の座をかっさらっていった年増で身分不相応の厚顔令嬢。それがミランダの社交界での評価だった。中肉中背で目立った特徴もなく、焦げ茶の髪に灰色の瞳というパッとしない容貌も反感を買う一因だったらしい。カインのエスコートで夜会に出れば、そのたびに釣り合っていないと囁かれるのはいつものことだった。
同年代の令嬢たちはすでに自分たちにも婚約者がいることもありミランダのことを邪険にしなかったのは幸いだったし、直接嫌がらせをされたわけではないから、年下のお嬢さん方からの嫌味にミランダもいちいち噛みついたりはしなかった。それでも心はささくれ立ったし、辛いと思うこともあった。
自分に求められているのは姉として、婚約者として、王子を支えること。その自負があったからこそ、ミランダは常に自分を律し、一歩後ろで王子を支える良き婚約者として振舞っていた。
「まさかそれが婚約破棄に繋がるなんてね」
自室に戻ったミランダは、先ほど父親から聞かされた婚約破棄の理由を思い返して一人つぶやいた。
----
「ミランダと枕を重ねるなんて……とても無理だ、考えられない」
カイン王子が側仕えにそう漏らしたのはひと月前のことだという。17歳を迎えた王子には、いわゆる“夜の公務”についての講義があったらしい。子を持ち血を繋げることは王に課せられる重要な仕事の一つであり、そのための必要な知識を与えることもまた重要な事であった。年頃の男子といえども国によって大切に守られてきた王子は講義で初めて男女の関係について学び、後宮の用意した公娼によって『手ほどき』を受け、それはそれは衝撃を受けたらしい。
『手ほどき』を受けた翌朝、目を覚ました王子は朝の支度をしながら気心の知れた側仕えに冒頭の言葉を漏らしたという。
これは王宮にとって一大事だった。王子が婚約者との閨を拒んだということは、仮にミランダが嫁いだとしても正式な跡取りが望めないということ。ミランダを正妻に置き愛妾を設けるにしても、誰を、何人、また将来的に万が一ミランダが懐妊できた場合の跡目争い。懸念事項がここにきて噴出したのだった。
「子が望めないのであれば、わざわざ子爵家の娘を正妻に取る必要はないのでは?」
そう言ったのが誰だったのか今ではもうわからないが、誰かのその言葉を皮切りに、高官たちの間で王子の婚約者の是非が問われ始めた。
そもそもミランダとの婚約は王妃の我が子可愛さによる独断の決定だった。ミランダが婚約者に落ち着いたからなのかどうなのか、真偽のほどはさておき、病弱だったカイン王子はすっかり健康になり、今や国中の若者の中でも十二分に腕が立つほどの健勝っぷり。さらにはカイン王子の後に生まれた妹姫のスザンナ姫も今年で10歳。健康そのもの。今の王家に『長寿のマグノリア家』なんてものが必要だろうか?
議論は紛糾した。10歳から22歳という長きにわたり不満一つ漏らさず王子に、ひいては王家に捧げてくれたミランダを、22歳という社交界では行き遅れになる歳になって今更暇を出すなんて非道が過ぎるという穏健派と、本来なら王子の婚約者は公爵家か少なくとも伯爵以上の家柄から選ぶのが慣例で、子も望めない子爵家の娘を正妻に迎えるなんてメリットがないし、子爵家の娘を正妻にして侯爵家以上の娘を愛妾になんてできるわけがないという過激派。
荒れに荒れた議論だったが、結局は王子の心境が判断を決した。政略結婚といえど愛のない結婚をさせるのはかわいそうだという意見に賛同が集まったのだ。
義務感での婚姻など、双方にとって良いことなど一つもない。国王夫妻はその仲の良さが国民の癒しとなり、国家安寧の基盤となる。子供時代を共に過ごしたとはいえ、情の交わせない相手と愛のない国王夫妻となるよりは、王子が真に愛し、家族を作りたいと願う娘を正規の婚約者とすべきだという結論が出された。重視されるのは王子の意思で、そこにミランダの恋心は裁量の余地はないのだ。
そこまで聞いてミランダはどおりでこのひと月、王子を訪ねて王宮へ行っても会わせてもらえないわけだとようやく理由に思い至った。それならばもっと早く言ってくれればいいものをと誰にでもなく不満をつぶやいた。
「恐れ多くも両陛下はこの決断にひどく心を痛めてくれた。もったいないお言葉だが、10年以上も娘のように可愛がってきたお前を手放すのは辛いと」
穏健派として一番反対してくれたのは何を隠そう、両陛下だったという。会う度に優しく親切に声をかけてくれた国王夫妻の顔を思い出し、ミランダは心が慰められるのを感じた。
「王として、親として殿下の心情を一番にするのは当然だと思います」
「だが、お前は大丈夫か? 私だって、陛下の臣下ではなく、お前の父親としてお前の心を大事にしたい」
微笑むミランダの肩を抱き、マグノリア子爵は眉を下げた。大事にしたいなどと言っても、婚約破棄は王から正式に言い渡されたもので、今更どうすることもできない。それでもミランダは父親の気持ちが嬉しかった。
「では、お父様。わたくしのお願いを一つ聞いてくださいますか?」
「ああ、いいとも。なんでも聞いてあげよう」
娘の笑顔にほっと息をついた父に向って、ミランダは笑顔で言い放った。
「外国へ留学したいのです」
ミランダは元々外国への興味が強い少女だった。叔母の旦那様が外国人だったということもあり、自国と違う文化、言葉、歴史に強く興味を惹かれていた。王子と婚約をする前は15歳になって高等学校へ進んだら留学をしようと決めていたほどだった。
だが婚約を機に外国へ何年も出るなんてことは許してもらえず、夢を諦めざるを得なかった。幸か不幸か、お后教育の中では外交関係も重要課題だったため、国内とはいえ外国の文化歴史を学べたのは慰めにはなったが、自分の目で足で世界を回りたいという気持ちはいつもまでもミランダの心に住み着いたままだった。
自分との婚約が破棄されたことで、王子には別の高貴な令嬢との婚約が待っているだろう。元々身分不相応の婚約だったのだからミランダに文句を言う権利なんてないが、それでも好きだった男の隣に別の女性がいる姿を見るのは耐えられない思った。
「3年か4年もしたら、笑っておめでとうと言えるようになるかしら」
荷造りをしながら、侍女のルイズにそう言ったミランダの顔は張り付けような笑顔に見えた。
「お姉さんを気取るなら、今でもそうしなくてはいけないのにね」
情けないとつぶやくミランダに、ルイズは眉をひそめた。
「お嬢様の気持ちは誰に侵されるものでもありません。悲しみが癒えるまで悲しいままでいいとルイズは思います」
ありがとうと笑ったミランダは、最後の荷物を入れ終えるとバタンと大きな音を立ててトランクを閉じた。自分の心も中に閉じ込めてしまったようだと、隣で見ていたルイズは思った。
「それにしても、何も明日出発だなんて急なことを言わなくても」
「だって、明日ちょうどマリンカへ出る船があるって言うじゃない。思い立ったが吉日って言うし、勢いって大切よ」
マリンカは件の叔母の旦那様の出身国だ。ノックスとは海を挟んで隣国にあたる。
「叔父様がマリンカまで同行してくれるっていうし、向こうに着いたら学校への留学手続きも手伝ってくれるって。旅のスタートにはもってこいだと思うけど」
「……それもそうですね」
諦めたように笑うルイズは、自分も最後の荷造りをするといって、別の侍女と入れ替わりで部屋を出ていった。
留学に連れていくのは侍女のルイズだけ。叔父に手続きまで手伝ってもらった後は二人だけで過ごすと決めた。父親は反対したが、なんでもお願いを聞いてくれるんだろうと粘ったら折れてくれた。何年過ごすかは決めていない。なにせ、王子との婚約を破棄されたなんてイロが付いてしまえば、もうノックスで別の誰かに嫁ぐのも難しいかもしれない。幸い家には弟が二人もいるし、後継ぎには困らない。貧乏貴族とはいえ、ミランダの婚約者時代の12年で父親にも箔が付き仕事は起動に乗った。どこかの家と血縁を結ばなくてはいけない理由もない。このままマリンカか、その先の国々で一生を過ごすのも悪くないかもしれない。そうしてそのうち、別の誰かと結婚した王子の知らせを聞くのも、まあいいんじゃないだろうか。自分に言い聞かせるようにミランダは誰にでもなくつぶやいた。
翌朝、朝一番の馬車で港へ向かう。見送りは屋敷の玄関まででいいと断った。
「いつでも帰っておいで」
「ありがとうお父様」
寂しがる父親と別れのハグとキスを交わした。朝早くから顔を見せてくれた弟二人にも向き合う。上の弟は王都の近衛兵に勤めているのに、昨日急に決めた知らせを聞いてわざわざ帰ってきてくれた。
「マックス、わざわざ来てくれてありがとう。近衛兵のお勤め頑張ってね。メビウスも勉強頑張るのよ」
「姉さんも無理しないで」
「行ってらっしゃい姉さん。向こうについたら手紙送ってね」
二人の弟ともハグとキスを交わして、叔父の待つ港へ向かうため馬車へ乗り込んだ。隣にすわるルイズと二人、離れていく家族に手を振った。
港に着いて叔父と合流すると、もう間もなく出港だと言われて急いで船に乗り込む。初めて乗る大きな船に心躍りながら、遠くに見える王宮にきゅっと胸が締まる思いがした。
「マグノリアの血なんて信じていないけど、私が離れても、12年分の力で、殿下が健やかでいてくださったらいいわね」
誰に言うでもなく、つぶやいた。愛してもらえなくても、恋してもらえなくても、姉のように慕ってくれた王子のことを嫌いになれるわけがなかった。自分からは遠く離れたところで、幸せでいてくれたらいいと思う。
大きな汽笛が鳴って、船は港から離れた。みるみるうちに小さくなっていく王宮。私はそうしてノックス王国から離れた。
----
「お嬢様、もうすぐ港に着きますよ」
ルイズに揺り起こされ、ミランダは目を覚ました。昨日は夜遅くまで持ち帰った小説を読みふけっていたのだ。客室の窓から外を眺めると、遠くに懐かしい故郷の風景が見えていた。
婚約破棄を機に外国へ飛び出してから5年。弟のマキシスの結婚を機に、ミランダはノックスへ帰ってきた。最初に降り立ったマリンカを始め諸国を渡り歩いたミランダは5年前の傷心もすっかり癒えて晴れやかな気持ちで故郷へ戻ってきた。
「久しぶりのノックスね。なんだか懐かしい香りがするわ」
港へ降り立ったミランダは船旅で凝り固まったからだをぐうっと伸ばしてルイズに笑いかけた。
「そうですね、丸々5年ですもの」
「ルイズには付き合わせて悪かったわ」
「とんでもございません。お嬢様と過ごした5年は大切な思い出になりました」
笑いながら港を離れ、王都行きの乗り合馬車に乗り込んだ。船旅は旅程が変わりやすいから実家に迎えは頼まなかったのだ。
「あのマックスが結婚なんて早いわね。義妹はどんな子か楽しみだわ」
「王都へ着いたらそのままお屋敷へ戻りますか?」
「マックスは王都の詰所に勤めているのでしょう? そのまま顔を見に行って、それから屋敷へ帰りましょう」
5年間の旅の思い出話に花を咲かせて、昼を少し過ぎたころ王都へ到着し、ミランダはそのままの足で弟の勤める詰所を目指した。久しぶりの王都は色々な店が変わっていたが、懐かしい姿そのままだった。不思議に思ったのは、見かける王家の肖像も5年前と変わらないものだったことだ。
「変ね。殿下ももう20歳を超えていらっしゃるし、とっくに結婚されたはずでしょう。新しい王家の肖像がないなんて」
「そうですね……。旦那様からの手紙にも、そういったことは何も書かれていませんでしたね」
外国へ飛び出して初めて知ったのは、外国では自分から情報を得ようとしない限り自国のニュースは入ってこないということだった。ミランダも最初は傷心が痛まないよう意識して情報を避けていたが、しばらくすると積極的に調べない限り情報が勝手に入ってくることはないのだと悟った。自然と耳に入るならまだしも、自分から王子の結婚について調べようという気にもならず、家族からの手紙でもミランダを思って王家の話題は触れられなかったので、結局ノックス王家の新しい情報を何も知らないままで5年間を過ごしたのだった。
「寵妃扱いにでもして、大事にしてるのかしらね」
ぽつりと呟いた言葉はルイズにも届かなかったようで風にさらわれていった。懐かしい王都の道をルイズと二人連れ添って歩いている途中に王家の紋章のついた馬車とすれ違った。反射で見上げたが誰が乗っていたのかまではわからず、御者も知らない人だった。
「もうすっかりふっきれたつもりだったけど、近くにいると思うと気になってしまうわね」
つい立ち止まって自嘲気味に笑うミランダをルイズはいたわし気に支えた。
「さぁ、早くマックスの顔を見に行って屋敷へ帰りましょうか。お父様もお待ちだし……」
そう言って再び歩き出そうとしたミランダの腕を、誰かが後ろから無遠慮に引っ張った。予想もしていなかった力にミランダは小さく悲鳴を上げた。転びそうになりながらもたたらを踏んで持ちこたえた。驚いて振り返ったルイズの顔が驚愕に見開かれているのを目の端で捉えながら、ミランダ自身も振り返ってその姿にあんぐりと口を開けた。
「カイン殿下?」
額に汗を浮かばせて、荒く息をしているのは紛れもなくカイン王子だった。最後に見た時よりも頬の肉が落ち、精悍な顔つきになっていた。ふわふわとなびいていた金の髪をしっかりと撫でつけられ、もう立派な大人の男性だった。ミランダが見ていた弟の姿はもうどこにもなく、離れていた5年の月日の長さを感じた。
「ミランダ……」
目を大きく見開き、信じられないとでも言うような口調で名を呼ばれ、常とは違う様子に戸惑いながら、ミランダははい、と一言返事をした。
「ミランダ」
「はい」
「ミランダ」
「……はい」
「ミラ……」
「はい。カイン殿下。いかがいたしましたか? お加減でも悪いのですか?」
うわごとのように繰り返し名前を呼ばれ、いよいよ様子がおかしいと、いつの間にか背後に控えていた王子の側仕えに目を向けようとすると、つかまれたままだった腕に再び力が入り、あ、と思った時にはぐいっと引き寄せられ、ミランダの眼下には先ほどまで見上げる高さにあったはずの王子の金髪が飛び込んできた。
「なんで急にいなくなっちゃったんだよぉ!!!!!!」
王都のど真ん中の往来で、カイン王子はミランダの胸に縋りついてうわあああんと大声で泣きだしたのだった。




