おめでとう
雨上がりの夜は、冷蔵庫のモーター音が壁を伝って長く響く。蛍光灯はときどき一度だけ、ぶん、と鳴って明るさを落とした。机にはノートPCとスマホ、封を切っていない祝儀袋。濡れた傘と洗剤の匂いが混じっている。
仕事で使う「祝い連絡」アプリにアップデートが入った。誕生日や昇進を登録すると、自動で「おめでとう」の文面と写真テンプレートを送る。総務の勧めで、家族の記念日もそこに移した。既定文は淡々としていて、便利だった。
その週の金曜、社内チャットに通知が来る。
〈おめでとう〉
表示されたのは、退職した先輩の名前。添付は海の写真。波打ち際に、濡れた緑の子ども靴が片方。胸の奥で呼吸が止まった。先輩は一か月前、海で亡くなっている。悪質な冗談だと思ったが、送信者は「祝い連絡」。既定値のままだ。
アプリを開くと、イベントの項目が勝手に増えていた。「完了」「移行」「解放」。説明はない。通知は続く。
〈おめでとう〉——交通事故現場のピン、用水路、崖のふもと。薄暗い写真ばかりで、どれも見覚えのある角度だった。祖父の赤いアルバムと同じ構図だ。何も写っていない場所に、白いパネルと丸い文字だけが置かれている。子どもの頃にめくった、あの気味の悪いページの続き。
母に電話をした。「うち、前から『おめでとう』って言う風習、あった?」
受話器の向こうで、母は少し黙ってから言う。「あんた、家族の記念日をアプリに移したんでしょう。よかった。向こうに届きやすくなるから」
「向こう?」
「説明はむずかしいけど、終わった側には“おめでとう”なのよ。言ってあげないと、こっちで残るから」
冷蔵庫の音がふっと止まり、部屋が耳だけになる。「残る?」
「写真か、匂いか、音か、何かでね」
通話を切り、アプリの設定をすべてオフにした。自動投稿、カメラ、位置情報。
【無効化できません。所有者が二人いるため】
文字がゆっくり出る。蛍光灯が一度暗くなり、時計の秒針がわずかに逆戻りした。画面の端で小さな雲のマークが点滅し、未送信の「おめでとう」が溜まっていく。
翌朝、ポストに白い封筒が入っていた。差出人はアプリの運営会社。中には艶のない白いパネル。角の丸い横長の板に、裏面の剥がせる両面テープ。説明書は一行だけ。
〈おめでとうの設置は、音の弱い場所へ〉
音の弱い場所——冷蔵庫が止まった瞬間の台所、踏切が鳴きやんだ後の河川敷、深夜の廊下。思い当たる景色に、祖父の写真が重なる。
夕方、社用携帯が震えた。同期の名前で、短い既定文。
〈おめでとう 部署異動〉
添付を開きかけて手が止まる。縮小表示の片隅に、見覚えのある会議室の扉。昨日から彼は姿を見せていない。異動の話も聞いていない。既読をつけず画面を閉じる。冷蔵庫のモーター音が戻り、すぐにまた消えた。
夜、アプリからプッシュ。
【新機能:音合わせ】
【“おめでとう”を届けるには、音の段差を揃える必要があります】
スマホのマイクに波形が走り、静けさが数値になる。蛍光灯を切り、換気扇を止め、時計を外す。音は薄くなり、耳鳴りだけが残った。白い画面に入力欄。
【宛先を選択】
「やめろ」と打とうとして親指が止まる。下に候補が並ぶ。先輩、同期、そして自分。日付は来週。
【イベント:移行】
喉が乾き、舌がうまく動かない。——言ってあげないと、こっちで残るから。母の声が重なる。
玄関のチャイムが軽く一回だけ鳴った。扉を開けると、廊下の空気は冷たく、雨の鉄の匂い。足元に同じ白いパネルがもう一枚、立てかけてある。黒い細いペンで丸い字。
「おめでとう」
インクの匂いは新しい。筆圧の癖に見覚えがある。祖父でも母でもない。自分の字だ。昨夜、テーブルにうっすら残ったペン跡の向きと同じ。覚えがないのに、指はその動きを知っていた。
部屋に戻り、パネルを机に置く。アプリは黙って開いていた。
【音が揃いました。設置してください】
どこに——と考えた瞬間、冷蔵庫の音がすっと消える。音の底に段差ができる。台所の隅。祖父の写真と同じ影の角度。パネルを持って立つ。角は手に馴染み、裏のテープがさく、と剥がれる。糊の匂い。壁紙のざらつき。
貼りつけた途端、スマホが短く鳴った。
〈おめでとう〉
宛先:私。イベント:移行。添付:台所の隅の写真。白いパネル。誰もいない。
蛍光灯はもう暗くならず、モーター音だけが一定に続く。通知を開いたまま、次の音の段差を待つ。宛先候補はまだ灰色で、読み取りづらいほど薄い。それでも、そこに二つの名前が並んでいた。どちらも、正しい。




