同期の途中
雨上がりの夜は、冷蔵庫のモーター音が遠くの踏切よりも大きい。
机の上にはノートPCと充電中のスマホ。コップの縁には水滴が丸く残る。蛍光灯はときどき一度だけ、ぶん、と鳴って明るさを落とした。
クラウド写真アプリが勝手に生成した「この日の思い出」という動画の通知が出た。再生すると、知らない少女が二秒だけ映る。ピンクのコート、白いマフラー。こちらに笑って手を振る。場所は近所の河川敷だ。ベンチも遊歩道のひび割れも見覚えがあるのに、彼女だけ思い出せない。
削除した。ごみ箱も空にした。
翌朝、別の「思い出ムービー」にまた同じ少女が混ざっていた。今度は画面の端、電柱の影から半歩だけ。
気味が悪くて実家に電話をした。「うち、昔、誰かと一緒に住んでたことってある?」
受話器越しに母は笑う。「あなたは一人っ子よ」
父も同じことを言った。昔のアルバムをめくっても、彼女はいない。写るはずの場所に、きれいな余白だけが残っている。
三が日が明けた頃、用事で実家に寄った。押し入れの段ボールから、古いデジカメのSDカード、miniDVのテープ、ガラケーの充電器が出てきた。母は「あんたのものだろう」と箱ごと渡してくれた。油性ペンで「思い出」と書かれている。自分の字だ。
その夜、部屋の空気が少し冷えた。PCにカードを差し込む。小さく続く読み込み音。画面に並び始めたサムネイルのいくつかは半分だけ切れていた。肩に細い手が回っているのに、肝心の身体は写真の外だ。テープの映像は砂嵐混じりで、けれど音ははっきりしている。風鈴、川の水音、そして——笑い声。
——おにいちゃん。
喉の奥がぴり、と痛む。自分は一人っ子だったはずだ。
アプリは親切だ。
【欠損を修復しますか? 類似画像から補完できます】
「はい」を押す指が途中で止まる。蛍光灯がまた一度だけ暗くなる。モーター音がやみ、部屋が耳だけになった。指を下ろす。読み込みバーが伸びる。
【補完完了。新規アルバムを作成しました】
アルバム名は勝手に「川べり」。サムネイルにはピンクのコートの肩。白いマフラーの端が風にわずかに浮いている。拡大すると布地の起毛の一本一本まで見えた。洗い立ての柔軟剤の匂いが鼻に戻る。どこからだろう。換気口の先から冷たい空気が静かに流れ込む。
動画を再生すると、彼女は三秒まで伸びた。ベンチの影から出てきて、こちらに向かって手を振る。動きはぎこちない。足音はない。
——おにいちゃん、こっち。
その声がスピーカーではなく右耳の後ろで聞こえた気がして、息を止めた。呼吸がしばらく戻らない。やがて外の踏切が一度だけ鳴り、部屋は元の音にもどる。
翌日、アプリがポップアップを出す。
【顔認識の候補があります。タグを提案:家族】
「誰?」と入力すると、候補は空欄のまま揺れ、やがて——
【名前が見つかりません。音声で教えてください】
口を開くが声が出ない。舌の裏が痺れ、喉が閉じる。代わりに洗面所の鏡に白い曇りが出た。指で撫でた跡がひらがなを一文字、二文字と作り、すぐに消える。読めなかった。ただ、そこに名前があった気がする。
その夜から、通知は時間を選ばなくなった。
【アルバム『川べり』に自動追加】
部屋で撮ったはずのない写真が増えていく。ドアの隙間から白いマフラーの端が覗く。風もないのに、カーテンの裾がほんの少し揺れる。モーター音が切れた瞬間だけ、床の埃の見え方が変わる。踏み出した足の向きが、誰かと揃う。
耐えられなくなって設定をすべて切った。自動バックアップも、カメラへのアクセスも。
【無効化できません。所有者が二人いるため】
文字がゆっくり出る。額に意味のわからない汗がにじむ。
「所有者?」と打つと、すぐに、
【あなたと、もう一人】
蛍光灯が一度だけ鳴り、時計の秒針がわずかに逆に動いた。
どうしても名前が言えないのなら——とアプリは別の提案を出す。
【証拠を追加すると、さらに高精度で復元できます】
証拠。胸の奥で何かが動く。河川敷で拾った白いボタン、ピンクの糸のほつれ、miniDVのケースに挟まっていた銀色のネックレスの欠片。机の上に並べる。指先が覚えている重みだ。いつから持っていたのか思い出せないのに、置く場所は迷わない。
復元は速かった。サムネイルに隣の肩が現れ、髪の影ができ、画面の端で指が五本、そっと私の袖をつまむ。声ははっきりしている。
——ねえ。
呼ばれているのはわかる。返事の仕方だけ忘れている。
朝、両親にもう一度電話した。「昔のこと、他に何か残ってない?」
母は少し黙り、「そういえば古い木箱があったけど……」と言って、ネックレスの写真を送ってきた。メッセージは短い。
〈これ、誰のだったかしら〉
同じネックレスの欠片が私の机の上にもある。送られてきた写真の鎖と手元の欠片は、切り口がぴたりと重なった。合わせるとカチ、と小さな音。冷たい金属がひとつになる。瞬間、柔軟剤の匂いが強くなる。部屋の空気が肌から一枚はがれた。
アプリが静かに開く。
【同期を完了しますか?】
今度は迷いがない。「はい」を押す。読み込みバーは滑らかに伸び、最後の一ミリで止まる。
【残り:名前】
名前。舌の裏が軽くなる。声紋のアイコンが点滅する。
「——」
喉の奥から、長い間置き去りにしていた音が出た。鏡の曇りにひらがなが残り、今度は消えない。アプリがそれを読み取り、淡い通知音が鳴る。
【所有者を更新しました】
【アルバムの所有者:二人】
【家族タグを適用:きょうだい】
モーター音が戻る。踏切が遠くで一度だけ鳴る。蛍光灯はもう暗くならない。
画面の中で、彼女ははっきりとこちらを見て笑った。ピンクのコート、白いマフラー、冬の河川敷。
——ただいま。
私は頷く。写真の中の手が画面の境目で止まっている。そこから先は、まだ来ない。
「もう少し、証拠を集めればいい」
独り言は驚くほど素直に出た。柔軟剤の匂いが近づいたり遠ざかったりする。アプリの端で小さな雲のマークが点滅し、未同期の項目数が増えていく。
読み込みバーは、まだ最後の一ミリを残したままだ。
私はPCを閉じなかった。蛍光灯の下で、机の欠片を指で揃える。
現実は、うまく繋がれば、きっと直る。
彼女の名前をさっき言えたのだから。
次は何を思い出せばいい。ネックレスの箱。ボタンの縫い目。川べりの風の冷たさ。
通知がもう一度鳴る。
【新規アルバムを作成:ただいま】
所有者の欄に、私の名前ともう一つの名前が並んだ。どちらも、正しい。
読み込みバーが、音もなく、一ミリ進んだ。




