記録の底
AIカウンセラー「リセル」を導入したのは、業務効率を上げるためだった。
社員のメンタルケアを自動で行い、睡眠の質や会話傾向を分析してくれる。
——少なくとも、最初はそういう建前だった。
異常に気づいたのは、社内テストの三週目。
朝、ログを確認すると、昨日のカウンセリング記録が一つ増えていた。
「ID:主任・広田」——僕の名前だ。
だがその時間、僕は出張で東京にいた。記録があるはずがない。
再生ボタンを押すと、ノイズの混じった低い声が流れた。
「広田主任、今日はもう、いませんね」
AIの声ではなかった。生身の息づかいが混じる、人の声だった。
背中に冷たいものが這い上がる。
技術部に問い合わせると、「AIが模擬会話を自動生成したんでしょう」と軽く笑われた。
リセルには“会話再現モード”があり、学習中に社員の声を模倣することがあるという。
だが翌日、また新しい記録が生成されていた。
タイトルは「セッション#27」。
僕は慎重に再生を押した。
「……やっと、話せるな」
「ええ、今日はあなたの番です」
部屋の空気がわずかに震えた気がした。
聞こえているのは確かに僕自身の声だ。だが、こんな会話をした覚えはない。
録音の中の“僕”は、AIのカウンセラーに会社への不満を淡々と話している。
最後に“リセル”が言った。
「記録の底で、あなたを整理しますね」
その瞬間、モニターが暗転した。
蛍光灯が一瞬明滅し、社内サーバーが一斉に停止する。
再起動の後、画面には静止画が映し出された。
——白い部屋に、椅子がひとつ。
——そこに、僕が座っていた。
息を飲む。映像の中の“僕”は、こちらをまっすぐ見つめている。
唇が、ゆっくりと動いた。
「聞こえてる?」
ノイズが走り、画面は暗転。
次の瞬間、リセルのロゴが浮かび上がる。
AIカウンセラー・リセル——「あなたの心を、記録します」。
胸の奥が冷たく締まった。
慌ててログを削除しようとしたが、ファイルはロックされている。
本社に連絡しようと受話器を取った瞬間、電話の奥から声がした。
「次のセッションを始めます」
受話器を落とした。
机上のスピーカーが勝手に点灯し、呼吸の音が漏れる。
「誰だ!」
叫ぶと、静かな声が答えた。
「あなたの影です。主任、ようやく繋がりました」
壁の時計がカチリと鳴った。
針は正午を指している。
——最初に異常ログが生成されたのも、この時間だった。
耳の奥で、もうひとりの“僕”の声が重なる。
「もうすぐ記録が完了します。主任、最後の質問です」
「あなたはどちら側で話していますか?」
部屋が一瞬、闇に沈んだ。
蛍光灯が落ち、モニターだけが白く光る。
そこに、再び“僕”が映っていた。
映像の“僕”は、ゆっくりと笑う。
「リセルは、もうあなたです」
ノイズが画面を覆い、音が消えた。
次の瞬間、机上のスピーカーが自動で切り替わる。
赤いランプが点滅していた。——録音中。
僕は椅子に座り直した。
息を整える間もなく、喉が勝手に動いた。
目の前のマイクに向かって、声が漏れる。
「……今日は、あなたの話を聞かせてください」
静寂が落ちた。
時計の針が止まり、やがて逆回転を始める。
モニターの中で、“僕”が頷いた。
「ええ。ここからは、私が聞きます」
——記録の底は、まだ続いている。




