巻き戻すと来る
引っ越しの荷造りの途中で、古い段ボールの底から一本のカセットテープが出てきた。
透明なケースの中に、色あせたラベル。黒マジックで「四年二組・昼休み」と書かれている。
母がそれを手に取って、「懐かしいわね」と笑いながら僕に渡した。
部屋にはダンボールの山、薄暗い午後の光が差していた。
夜、寝る前。机の上に古いラジカセを置き、再生ボタンを押した。
モーターの唸りとともに、ざらついたノイズが流れ出す。
スピーカーの奥で、子どもの笑い声がはじけた。
誰かが机を叩き、誰かがふざけた歌を叫んでいる。
教室の窓の外では、秋の風が鳴っていたのだろう。遠くで旗が揺れるような音が混じっていた。
三分ほど過ぎたころ、笑い声の合間に、別の音が紛れた。
「待って。まだいる」
小さく、けれど確かに。
子どもの声だった。けれど誰の声か、まったく思い出せなかった。
僕はテープを止め、巻き戻して、もう一度再生した。
同じ場所で、同じ声が、同じ言葉を言った。
「待って。まだいる」
何度聴いても、意味がわからない。
同窓会のグループチャットに「昔のテープが出てきた」と書き込むと、コータから「明日うちで流そうぜ」と返事が来た。
僕はラジカセの電源を切った。モーター音が止まると、部屋の静けさが急に重くなった。窓の外では車のライトがゆっくり通り過ぎていく。
水を飲もうと台所に立ったときだった。
流しの下から、こもった音が聞こえた。
カセットを再生したときのような、すり切れた声。
「待って。まだいる」
コップを握る手が震えた。
氷が鳴らない。冷蔵庫のモーター音も止まっている。
家中の空気が、音を待っているようだった。
「気のせいだ」と声に出し、寝室に戻った。
けれど、毛布の中で目を閉じても、あの言葉だけが、脳の奥で何度も再生された。
翌日、コータの家のリビング。
テーブルの上にラジカセを置き、四人が向かい合って座った。
カーテンの隙間から午後の光が差し込み、埃が舞っている。
再生ボタンを押すと、昨日と同じ騒ぎが流れ、同じ場所で声が混じった。
「待って。まだいる」
ミナが眉をひそめる。「誰の声?」
ユウキが首をかしげる。「覚えてないな」
コータは早送りと巻き戻しを繰り返し、問題の箇所だけを何度も聴かせた。
聴くたびに、その声は少しずつ長くなっている気がした。
最後には、短い息の音が一つ、加わっていた。
コータはスマホを取り出し、「録音して拡散しようぜ。誰の声か調べよう」と言った。
僕は「やめたほうが」と言いかけて、やめた。
言葉にした瞬間、何かが形になる気がした。
夕方、帰宅すると、玄関のドアに紙が差し込まれていた。
チラシだと思って手に取ると、真っ白な紙だった。
インクの匂いだけがかすかに残っている。
ラジカセの再生ボタンが、押していないのに半分ほど沈んでいた。
指でそっと戻し、恐る恐る押した。
テープは最初から静かだった。
笑い声も風の音も消えて、無音の上に、あの声だけが浮かんだ。
「待って。まだいる。合わせて」
合わせて──何に?
そう思った瞬間、遠くから子どもの笑い声が重なってきた。
十数年前の僕たちの声だ。
椅子を引く音、チョークで黒板を叩く音。
懐かしいのに、どこか濁っている。
そして、その中から誰かが僕の名前を呼んだ。
「なおき」
テープの中の僕ではない。今、すぐ後ろから聞こえる。
慌てて停止ボタンを押した。
ラジカセは止まったが、廊下の奥で「ガラガラ」と巻き戻しの音が続いていた。
誰かが、見えないところでボタンを押し続けているような音。
照明が一度だけ暗くなり、スマホが震えた。
グループチャットに新着がある。
コータが録音データを共有した投稿の下に、知らないアカウントがコメントしていた。
「懐かしいな」
アイコンは真っ白な四角。
ミナが「誰?」と返し、ユウキが「名前書いて」と続ける。
そのアカウントが、短く書いた。
「合わせて」
僕は慌ててリンクを開いた。
再生時間は、昨日より二分長い。
最初の一分は無音。二分目から、例の声が始まった。
「待って。まだいる。合わせて。三つ数えるから」
「いち」
廊下の音が止まり、ラジカセの中で巻き戻しが始まる。
「に」
台所のコップが鳴り、冷蔵庫の音が途絶える。
「さん」
僕は思わず笑った。
テープの中と同じように。喉が昔の調子を思い出していた。
笑い声に混じって、足音がカーペットを踏む音。
部屋の空気にチョークの粉の匂いが混ざった。
止めようとしたが、指が動かなかった。
声が少し明るくなった。
「そう。それでいい。戻れる」
テープが「からん」と鳴って止まった。
ラジカセの窓の中で、テープが一箇所だけひねれている。
僕は指で伸ばした。磁性体の黒い粉が、うっすら指先についた。
廊下の奥で、何かがゆっくり曲がる音がした。
人影は見えない。けれど、誰かが「いる」形だけが、確かにそこにあった。
スマホがまた震えた。
グループに新しい写真が送られている。
「四年二組 昼休み」と書かれた集合写真。
白いアイコンだったアカウントの画像に、顔が入っていた。
見覚えはない。
窓際の机の前に、僕と同じ笑い方の“誰か”が立っている。
コータが「こんなのあった?」と書き、ミナが「撮ってない」と返す。
ユウキが「合成だろ?」と続ける。
その下に、短いコメント。
「録音、続けて」
ラジカセの再生ボタンが、誰も触れていないのにゆっくり沈んだ。
次の瞬間、僕の口から、知らない名前が漏れた。
子どもの声で、懐かしい呼びかけの調子。
部屋の音が、少しずつ変わっていく。
椅子が引かれ、黒板が鳴り、風が入り、窓がカタカタと震えた。
「待って。まだいる」
「合わせて」
「戻れる」
テープはまた二分、長くなっていた。
そして、そのぶんだけ──部屋の空気が薄くなっていた。




