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キメラの爪

2017年、春。モスクワ郊外。


雪解けの泥がまだ乾ききらない白樺の森に、一軒のダーチャが隠れるように佇んでいた。

その地下室には、窓も、祖国の匂いもない。

あるのは、壁一面に貼られたモスクワの地図と、男たちの息遣いだけだった。


「ターゲットの行動予測パターンだ」


チームリーダーが、タブレットの画面を指でなぞる。

彼のコードネームは『ゴースト』。その名の通り、彼はこの二十年間、世界の紛争地帯で数々の「不幸な事故」を演出しながら、一度もその存在を記録されたことがない男だった。


画面には、セルゲイ・ヴォルコフの過去一ヶ月の行動データが、無数の点と線でプロットされている。


「ロスコスモス本部、クレムリン、ジュコーフスキーの研究所。この三点を結ぶ彼の公式な動線は、FSB(連邦保安庁)の鉄壁の護衛下にある。手出しは不可能だ」


ゴーストは画面をスワイプし、一つのエリアを拡大した。

モスクワ南西部、ノヴォデヴィチ女子修道院。

そして、そこに隣接する墓地。


「だが、月に一度、あるいは二度。ターゲットは全ての予定をキャンセルし、たった一台の車でここを訪れる。彼の亡き妻の墓だ。予測不能な、唯一の行動。そして、我々にとって唯一の機会だ」


「手段は?」

チームの一人が、分解された狙撃銃の部品を磨きながら尋ねた。


「狙撃も毒も、痕跡を残しすぎる」


ゴーストは首を振った。


「我々が演出するのは、悲劇的な、しかしありふれた『交通事故』だ。

ターゲットが墓地から環状道路へ合流する、あの緩やかなカーブ。

あそこで、飲酒運転の大型トラックが、コントロールを失って彼の車に突っ込む」


ゴーストの目は、何の感情も映していなかった。


「トラックの運転手は、もちろん、その場で死亡する。

彼の血中からは、致死量寸前のアルコールと薬物が検出されるだろう。

全てが完璧な悲劇として処理される。

我々は、そこにいない。初めから、どこにも存在しないのだから」


それは、キメラ(怪物)の爪が、音もなく研がれる瞬間だった。


――――――――――


その週末。

ヴォルコフは、自宅の書斎で、娘のマリアが出場するフィギュアスケートの大会プログラムを、ただぼんやりと眺めていた。


ショートプログラムの使用曲は、ショパンの『別れの曲』。

その選曲に、18歳の娘が込めたであろう、父親への無言のメッセージを、彼は痛いほど感じていた。


(…あの子は、一体何と別れたいのだろう)


過去か、弱さか、それとも、彼が父親であることからか。

彼は、ジャケットを羽織ると、誰に言うでもなく家を出た。

玄関に置かれたままの、OD-1の模型が、鈍い銀色の光を放っている。


いつものように、彼は護衛の車に乗り込み、行き先を告げずに、ただ「西へ」とだけ指示した。

運転手は、何も聞かずに頷いた。

長官のこの気まぐれなドライブが、どこへ向かうのかを、彼は経験で知っていた。


ノヴォデヴィチ修道院の墓地は、春の柔らかな日差しの中で、静まり返っていた。

ヴォルコフは、妻ユキの墓石の前に立ち、買ってきた一輪の白い百合を供えた。


言葉は、なかった。

ただ、冷たい石に刻まれた彼女の名を、指でなぞる。

許しを乞う資格など、自分にはない。


ただ、この胸に巣食う空虚を、彼女の記憶だけが、ほんの一瞬、埋めてくれる気がした。

十分後、彼は墓地を後にした。

心が、ほんの少しだけ軽くなったような、あるいは、より重くなったような、奇妙な感覚だった。


車が、モスクワ環状自動車道路へと合流する。

運転手は、BGMのクラシック音楽のボリュームを、少しだけ上げた。


その時だった。


前方を走っていた大型トラックのコンテナが、不自然に、そして大きく左右に揺れ始めた。

まるで、巨大な獣が身震いするかのように。


「…!」


百戦錬磨の運転手は、即座に危険を察知した。

彼はアクセルを踏み込み、トラックを追い越そうと車線を変更する。


だが、それはゴーストが描いた脚本通りの動きだった。

追い越そうとするヴォルコフの車に合わせるように、トラックは猛然と、そして意図的に、左へ、ヴォルコフの車の進路を塞ぐように、巨大な鉄の壁となって襲いかかってきた。


「長官、お捕まりください!」


運転手の絶叫と、甲高いタイヤのスキール音が、車内に響き渡る。

ヴォルコフの目に映った最後の光景は、急速に迫ってくるトラックの錆びついたグリルと、運転席でこちらを見つめる、サングラスをかけた男の、感情のない顔だった。


次の瞬間、世界は、衝撃と轟音、そしてガラスが砕け散る音に支配された。

彼の意識は、熱い鉄の匂いと、ユキが好きだった百合の香りが混じり合った、奇妙な感覚の中で、急速に闇へと沈んでいった。

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