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沈黙のチェックメイト

国務長官はCIA長官の目を真っ直ぐに見据える。


「長官、君は本気で、DGSEとAISEが、我々の“ウェットワーク”を指をくわえて見ているとでも思っているのかね。ドイツからの通告によれば、彼らはすでに『運命共同体』だ。

我々がベルリンで一人でも工作員を動かせば、パリとローマはそれを自国への侵略と見なし、欧州全土で我々の情報網を狩り始めるだろう。

そうなれば、我々は敵地の真ん中で、目と耳を完全に失うことになる」


「それは憶測に過ぎん!」

CIA長官が反論する。


「彼らも、最終的には現実を見る。ロシアの脅威の前では…」


「そのロシアの脅威以上に、我々が“危険な友人”だと、彼らが判断したらどうする?」


国務長官はその言葉を遮った。

そして部屋にいる全員に、特に大統領に向かって語りかける。


「最悪のシナリオを想定しよう。

我々の作戦が成功し、ドイツの現政権が崩壊したとする。

その時、我々は何を手に入れる?

ベルリンには親米的な傀儡政権が誕生するかもしれない。

だが、その代償として、我々はNATOを失うのだ」


部屋は水を打ったように静まり返った。


「ドイツの民主主義が、同盟国の手によって内側から破壊された。

その事実を知った時、欧州の民衆が我々に向ける目は、信頼や尊敬ではない。

軽蔑と恐怖だ。

NATOという、70年間自由世界を守ってきた偉大な同盟は、その瞬間に内側から崩壊する。

それは軍事的な敗北ではない。

我々が掲げてきた全ての価値と理想の、完全な敗北だ」


国防長官が苦々しく口を挟む。


「では、何もするなというのか!。同盟国からの脅迫に、ただ屈しろと?」


「そうは言っていない」

国務長官は静かに首を振った。


「君たちが提示した選択肢は、どれも病気を治すどころか、患者を確実に殺してしまう劇薬だ。

ロシアは、一発の銃弾も撃つことなく、我々が自滅するのを高笑いしながら待っているだろう。

我々は、彼らが仕掛けた盤の上で、彼らが望む通りに踊らされているに過ぎない」


議論は完全に行き詰まった。

強硬策は同盟の自壊という、あまりにも高すぎるリスクを伴う。

かといって、何もしなければ、アメリカはドイツの脅迫に屈したということになり、威信は地に落ちる。


進むも地獄、退くも地獄。

シチュエーション・ルームは、出口のない迷路と化していた。


大統領は額に深く刻まれた皺に指をやり、解決策のない沈黙の中で、苦悩の表情を浮かべる。


議論は、出口のない怒りの円環を描くだけだった。

強硬派の拳と、現実主義者のため息が、空気を飽和させる。


その時、大統領は、部屋の末席で、この狂騒から切り離されたように静かに戦況を見つめていた一人の若い男に視線を向けた。

国家情報会議から派遣された、新世代の戦略分析官。


痩身の体躯と学者然とした佇まいは、この部屋にいる猛禽のような将軍たちとは明らかに異質だった。


「…君の意見を聞かせてくれ」


大統領の声は疲労でかすれていた。


「君たちは、我々軍人や政治家が見落とすものを見るために、ここにいるはずだ。

我々は、一体何を見落としている?」


指名された分析官――ダニエル・キムは、静かに立ち上がった。

その目は、テーブルの上に並べられた暴力的な選択肢ではなく、この状況の本質そのものを見抜いていた。


「大統領、そして皆様」


声は静かだったが、その場の全員の思考を止めるほど冷たい明晰さがあった。


「我々が今議論しているのは、いかにしてこの戦いに勝つかです。

ですが、恐縮ながら申し上げれば、その前提がすでに間違っている。

この戦いは、もう終わっているのです。

我々の、完全な敗北で」


侮蔑の表情を浮かべたCIA長官が何かを言いかけたが、キムは手のひらを向けて制した。


「ドイツが突きつけているのは、単なる機密情報ではありません。

彼らが手にしているのは、世界中の誰もが理解できる、完璧な『物語』です」


彼はスクリーンを指差す。


「筋書きはこうです。

『かつて自由世界の守護者だったアメリカは、自らの衰えを認められず、パラノイアに陥り、最も忠実な同盟国であるドイツの民主主義を、その主権ごと内側から破壊しようとした。

だが、誇り高きドイツは、その圧力に屈しなかった』。

この物語を前に、我々が何をしても、全てが悪役の最後の惨めな足掻きにしかならないのです」


「首相を暗殺すれば卑劣な暗殺者になる。

軍を動かせば民主主義の破壊者になる。

政治を混乱させれば姑息な陰謀家になる。

我々が何をしても、彼らの物語を、より劇的に証明する結果にしかならない」


キムは息を吸い、部屋を凍らせる最も残酷な真実を告げた。


「これは我々が作り上げてしまった自爆装置です。

ロシアは起爆装置の設計図を渡しただけ。

我々自身がこの数ヶ月で爆弾を組み立て、自らの心臓部に誇らしげに設置してしまった。

そして、この物語が破壊するのはNATOという軍事同盟だけではない。

アメリカが70年間血を流して築き上げてきた、最も重要な戦略資産――『自由世界の指導者』という道義的権威そのものを完全に破壊するのです」


部屋にいる全員の顔を一人ずつ見回す。


「我々はすでにチェックメイトされているのです。

唯一残された選択は、盤上のキングを静かに倒して投了するか、逆上して盤ごとひっくり返し、この部屋もろとも西側の自由世界を燃え尽きさせるかです」


シチュエーション・ルームは墓場のような静寂に包まれた。

CIA長官の顔からは血の気が引き、国防長官は世界最強の軍隊を指揮するその手を、固く握りしめるしかできない。


「静かな恐怖」が全員の心を支配していた。

それはミサイルが飛んでくる恐怖ではない。

自らが信じてきた全ての正義と力が、一つの巧みな「物語」の前では完全に無力であると悟った、知性ある者たちの恐怖だった。


大統領はゆっくりと顔を上げた。

その顔には、超大国の指導者としての威厳ではなく、出口のない迷路で自らが作り出した亡霊に追い詰められた男の、深い絶望だけが浮かんでいた。

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