誇りの代償
ベルリン、首相執務室。
夜の闇が、勝利の門のシルエットを黒く溶かしていた。
ハンス・ディートリッヒが嵐のように去った後、部屋には重い沈黙だけが残された。
ドイツ首相、カール・ヴェルナーは、ただ一人、巨大な執務机の前に座っていた。
もう何時間も人払いをしたまま、苦悶の表情でモニターを見つめている。
彼の目の前には、ロシアから送られてきた「解毒剤」のデータが表示されたままの端末がある。
その青白い光が、彼の顔に深い影を落としていた。
(…誇りある国であるためには…)
ディートリッヒの最後の言葉が、耳の奥で反響する。
首相は、ゆっくりと自分の手を見た。
節くれ立ち、皺の刻まれた、年老いた政治家の手だ。
この手で、一体いくつの法律に署名し、いくつの協定に握手を交わしてきただろうか。
ふと、彼は全く別の、若く、力強かった頃の自分の手を思い出した。
1980年代、まだこの国が壁で分断されていた時代。
徴兵され、ヘッセンの森の凍てつく塹壕の中で、彼は小銃を握りしめていた。
向こう側には、ワルシャワ条約機構軍の戦車が、見えない脅威として存在していた。
『もし、連中が本当に越えてきたら、どうする?』
隣で同じように震えていた、農家の息子だった戦友が、白い息を吐きながら尋ねた。
あの時の答えは、簡単だった。
『戦うさ。自由のために。
俺たちの家族と、この国の民主主義を守るために、死ぬ覚悟はある』
あの頃、敵は明確だった。ソ連という、自由と民主主義の抑圧者。
大義は、一点の曇りもなく輝いていた。では、今はどうだ…?
首相は、端末の画面に視線を戻した。
そこに映し出されているのは、かつての同盟国、自由世界の旗手であるはずのアメリカが、自分たちの民主主義を内側から蝕んでいる、動かぬ証拠だった。
(自由を守るために、自由を軽視する者と手を組むのか?
それとも、自由を脅かす者の鎖に、甘んじて繋がれ続けるのか?)
どちらも、彼が青年時代に誓った「誇り」とは、あまりにもかけ離れていた。
だが、選ばねばならない。
首相は、ゆっくりと立ち上がり、執務室の受話器を取った。
呼び出したのは、ディートリッヒだった。
「…ハンス、私だ。決めたよ」
彼の声には、もう迷いはなかった。
「君が持ってきた劇薬、それを飲む。
だが、全てではない。
我々の誇りを保つために、最低限の量だけだ。
そして、その責任は、ドイツが、この私が負う」
数分後、首相は連邦情報局(BND)の長官を執務室に呼び寄せた。
「長官、これから私が言うことを、一言一句違わずに実行してくれ。
これは、国家の存亡を賭けた、極秘作戦だ」
首相の声は、静かだったが、部屋の空気を震わせるほどの重みがあった。
「まず、CIAのベルリン支局長と、非公式に接触しろ。
場所は問わない。彼が最も安心できる場所を選べ」
彼は、一枚のメモ用紙に、ペンを走らせた。
「そして、この証拠の“一部”だけを、彼に見せるのだ」
首相が差し出したメモには、ヴォルコフが提供した証拠の中から、BfV高官への脅迫に使われたジュネーヴの銀行取引明細、ただ一つだけが記されていた。
「彼に、こう伝えろ。
『我々は、全てを知っている』と。
そして、『アメリカ政府が、我が国に対する全ての違法な工作活動を、48時間以内に完全に停止しない場合、我々はこの証拠をディア・ミラー誌に公表する用意がある』と」
BND長官が、息を呑むのが分かった。
「さらに、こう付け加えろ」
首相は、最後の、そして最も重要な言葉を告げた。
「『この警告は、私個人を消しても無意味だ。
この情報は、すでにバックアップとして、パリとローマの友好国情報機関と完全に共有済みである』と。
彼らに、これがドイツ一国だけの問題ではないことを、骨の髄まで理解させろ」
長官が退室した後、首相は一人、再び窓辺に立った。
眼下のベルリンの街は、何事もなかったかのように、静かな眠りについている。
彼は、ガラスに映る自分の姿を見た。
そこにいたのは、理想に燃えた青年ではない。
ただ、自国の誇りを守るために、取引し、狂った友を脅迫するという、汚れた選択をした、一人の年老いた指導者だった。
「…すまないな、ハインツ」
彼は、先だって決死の覚悟で報告をしたシュタイナー少将の顔を思い浮かべ、誰に言うでもなく呟いた。
「君が守ろうとした誇りを、私は、このような形でしか守れなかった」
ベルリンの夜は、まだ明ける気配を見せなかった。
だが、その最も暗い闇の中で、ドイツは、自らの手で運命の舵を握り直すための、危険な一歩を、確かに踏み出したのだ。
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