毒か解毒剤か
2016年、晩秋。
ミュンヘンにあるシーメンス本社の地下。
外部から完全に遮断された危機管理室で、ハンス・ディートリッヒは、モスクワから送られてきた暗号ファイルを、震える指で開いた。
ファイルが解凍され、三つの証拠が彼の目の前に現れた時、彼は椅子に深く沈み込み、天を仰いだ。
データパッケージには、三つのファイルが収められていた。
第一に、アメリカの財団からタックスヘイブンを経由し、ベルリンのデモ主催者の口座へと資金が流れる、完璧な金の流れの証拠。
第二に、CIAが連邦憲法擁護庁(BfV)の高官を脅迫するために使った、ジュネーヴのプライベートバンクの取引明細。
そして第三に、ラムシュタイン米空軍基地の個室で交わされた、マクドナルド将軍とシュタイナー将軍の会話――ノイズ一つない、完全な音声記録。
ヴォルコフからのメッセージは、音声ではなく、ただのテキストファイルだった。
『あなた方が今、手にしているのは、戦争を始めるための弾薬です。
だが、賢明な指導者は、自ら引き金を引くものではない。
我々が提供するのは、この弾薬を、あなた方の手を汚すことなく、敵の心臓に届けるための“外科手術”です。これらの情報を、我々のサイバー部隊が、あなた方が信頼するドイツ国内の報道機関(例えば、ディア・ミラー誌)のサーバーに、“匿名で”、そして“発見される形で”届けます。
ドイツ国民が、自国を混乱させている熱病の正体を知った時、デモの怒りの矛先は、ベルリンではなく、ワシントンへと向かうでしょう。あなた方はアメリカと戦う必要はない。
ただ、真実の光が差し込むのを、静かに待つだけでいい。
これは、我々からの友好の証です。
この解毒剤を使うか否か、その決断は、全面的にあなた方に委ねます』
それは、法治国家の経営者として、そして個人の自由を信条とする一人の人間として、到底許容できるものではなかった。
アメリカは、友好国という仮面の下で、自分たちの主権と尊厳を、土足で踏み躙っていた。
そしてロシアは、その醜悪な真実を「友好の証」として、微笑みながら差し出してきた。
どちらも、信頼できる相手ではない。
だが、このロシアからの「処方箋」は、ドイツが自らの足で立つための、唯一の機会を与えてくれていた。ディートリッヒは、側近に一言だけ告げた。
「首相官邸に、私が行くと伝えろ。一分一秒を争う」
ベルリン、ドイツ連邦首相府。
首相執務室の空気は、鉛のように重かった。フランスからの力強い支援の申し出に一縷の望みを見出したものの、街頭の混乱とアメリカからの見えざる圧力に、カール・ヴェルナー首相は心身ともに消耗しきっていた。そこに、ハンス・ディートリッヒが、嵐のように現れた。
「首相、お時間がない。単刀直入に申し上げます」
ディートリッヒは、挨拶もそこそこに、データ端末をテーブルの上に置いた。
「モスクワから、解毒剤が届きました。
ですが、これは劇薬です。独立への劇薬に他なりません」
彼は、ファイルの内容を簡潔に、しかし重みを込めて説明した。
ヴェルナーの顔が、項目を追うごとに青ざめていく。
「…これが、我々の『同盟国』の正体です。
彼らは、我々の民主主義を内側から腐らせ、軍を動かし、この国を彼らの意のままになる傀儡へと変えようとしている」
ディートリッヒの声は、怒りよりも、深い悲しみを帯びていた。
「そして、これがヴォルコフからの提案です」
彼は、ロシアの「匿名リーク」という外科手術について説明した。
その背後に、ロシア対外情報庁(SVR)の長い手が、ラムシュタイン米空軍基地――NATO軍の内部にまで伸びている事実も添えて。
…彼らは知らない。
この情報が、未来メールに記された手掛かりをもとに、ラムシュタインにCIAが仕掛けていた小型マイクをSVRが逆ハックすることで得られたものであることを。
ヴェルナーは、言葉を失い、ただ端末の画面を見つめていた。
その背中に、ディートリッヒは、一人のドイツ国民として、そして国家の未来を憂う愛国者として、最後の、そして最も重い言葉を投げかけた。
「首相。あなたが一人の人間として、今、恐怖を感じておられることは、痛いほど理解できます。
ですが、今夜、あなた――いや、ドイツが下す決断は、次の選挙や、目先の経済指標のためのものではありません。この国が、これからの五十年、自らの運命を自らの手で決める権利を取り戻せるかどうかの、分水嶺です」
ディートリッヒは、一歩前に進み出た。
その目は、一企業の会長のものではなく、国家の魂を問う者の目をしていた。
「もし、あなたがこの劇薬を飲み干し、アメリカとの見えざる戦争を戦い抜く覚悟があるのなら。
この嵐が過ぎ去るまで、あなたが決して折れないというのなら――
我々ドイツ産業界は、全ての損害を覚悟の上で、あなたの盾となり、剣となりましょう。
我々は、自らの運命を決める権利を、誇りを取り戻せる」
彼はそこで一度、言葉を切った。
そして、非情な宣告を続けた。
「ですが、もし、あなたにその自信がないというのなら。
この代償の大きさに怯え、国家の主権よりも同盟国との安定を選ぶというのならば、
首相、私はあなたに、ご辞職を求めます。
この歴史的な岐路において、この国に必要なのは、ためらう指導者ではないからです」
首相執務室 夕方
ドイツ首相として、ヴェルナーは、フランスからの友情の申し出と、ロシアから届いた悪魔の処方箋、そして自国民から突きつけられた痛烈な最後通牒を前に、立ち尽くしていた。
ベルリンを蝕む熱病は、解毒剤の投与を待っていた。
だが、その薬は、病を癒すと同時に、患者の魂そのものを、永遠に貸しのある状態へと変えてしまう、あまりにも危険な劇薬だった。国家の命運を賭けた、孤独な決断の時が、刻一刻と迫っていた。
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