愛国者
2016年、晩秋。
ベルリンの熱病は、日ごとにその勢いを増していた。
街頭では右派と左派のシュプレヒコールが不協和音となって響き渡り、連立政権は機能不全の淵に沈んでいた。アメリカが処方した「内乱」という名の毒は、ドイツの体を確実に蝕んでいた。
だが、その毒に対し、体内の免疫系が、そして外部の医師が、静かに動き始めていた。
ベルリン郊外、連邦軍基地。
ハインツ・シュタイナー少将は、官舎の自室で一晩を明かした。
一睡もしていない。磨き上げられた将校用の短靴、壁にかけられた寸分の狂いもなくプレスされた制服。
彼の世界を構成する全ての「秩序」が、この部屋の静寂の中で、彼を無言で責め立てているようだった。
彼の目の前には、ただ一枚の報告用紙と万年筆だけが置かれている。
昨夜の記憶が、胃の底に注がれた鉛のように重くのしかかる。
ラムシュタインの高級なワインの味、そして戦友ジョン・マクドナルドが、親しみを込めた瞳で口にした、甘美で、あまりにも醜悪な言葉。
『もし、君のような愛国的な軍人が “国家を安定させるための行動” を起こすというのなら…』
クーデターの教唆。
それは、ドイツ連邦軍の軍人として、彼がこの身に受けた最大の侮辱だった。
ナチスの過去を乗り越え、民主主義国家の「市民の軍隊」として生まれ変わったこの軍隊の存在意義そのものを、根底から否定する言葉だった。
ジョンは、それを分かっていなかった。
あるいは、分かった上で、この毒を囁いたのだ。
「戦友…か」
シュタイナーは、誰に言うでもなく呟いた。
その声は、乾ききっていた。
彼はペンを取った。
その重さが、国家の命運の重さのように感じられた。
書くべきは、辞表ではない。
断じて。
数時間後、首相官邸の地下深くにある危機管理室。
シュタイナーは、首相の首席軍事顧問であるクラウス・フォン・アイゼンシュタット大佐と、たった二人で向き合っていた。
分厚い防音扉が閉められると、部屋は外界の音から完全に遮断された。
「ハインツ、一体何があった。
君ほどの男が、こんな時間に、こんな形で会談を要請するとは」
アイゼンシュタットが、訝しげに口火を切った。
シュタイナーは、背筋を伸ばしたまま、微動だにしなかった。
まるで戦場で敵情を報告するかのように、冷静に、そして正確に事実だけを述べ始めた。
「昨夜21時05分、ラムシュタイン米空軍基地内、ゲストハウスの個室にて、米欧州軍司令官ジョン・マクドナルド大将と会食。議題は、表向きNATOの連携強化についてでした。
しかし…」
彼は一度言葉を切り、アイゼンシュタットの目を真っ直ぐに見据えた。
「会談の終盤、彼は私に対し、現政権がロシアとの関係において『危険な賭け』を行っており、それがNATOの結束を揺るがしていると指摘。
その上で、『軍人として、政治家の過ちを正す覚悟があるか』と問いかけてきました」
アイゼンシュタットの表情が、見る間に凍りついていく。
彼は、信じられないというように、かすかに首を振った。
「…待て、ハインツ。君は、まさか…アメリカの四つ星将軍が、同盟国の軍に対し、憲法外の行動を示唆したと、そう言っているのか?」
「示唆、ではありません。教唆です」
シュタイナーは、断言した。
その声は、鋼のように硬く、震えはなかった。
「彼は私を『愛国者』と呼びました。
そして、愛国者として、私はこの祖国への裏切りを報告する義務があります」
その言葉の持つ意味の重さに、アイゼンシュタットはしばらく言葉を失った。
やがて深く、長い息を吐いた。
「…分かった。報告、感謝する。君は、真の軍人だ、ハインツ」
ドイツ政府は、アメリカの悪意を証明する、最も強力で、そして最も危険なカードを手にした。
だが、このカードを切れば、NATO同盟そのものが崩壊しかねない。
かといって、このまま黙殺すれば、いつまた同じ毒が軍の別の誰かに囁かれるか分からない。
彼らは、真実という名の時限爆弾を抱えてしまったのだ。
そして、その時計の針は、今この瞬間も静かに進み続けている。
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