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熱病

本作に描かれる政変の一部は、冷戦期以降、合衆国が世界各地で繰り返してきた「都合の悪い民主政権を内部から崩す」手口を下敷きにしています。

歴史を知る読者には、1973年のチリなど、いくつかの事例が思い浮かぶかもしれません。

2016年、晩秋。


ドイツ政府は、アメリカが突きつけた「独立の代償」に対し、歯を食いしばって耐えていた。

シーメンス社はロシアや中国との新たな提携交渉を水面下で進め、政府もまた、ESAを通じて独自の宇宙開発計画を維持する姿勢を崩さなかった。


彼らは耐えていた。

だが、その足元の大地は、静かに、しかし確実に熱を帯び始めていた。


アメリカは、外部からの圧力だけではこの古く、そして誇り高い大陸を屈服させられないと悟ると、次の一手――より狡猾で、より悪質な、内部からの破壊工作へと移行した。


――ベルリンの街は、奇妙な熱病に浮かされていた。


ブランデンブルク門の前では、右派ポピュリスト政党「ドイツ愛国党」が掲げる黒・赤・金のドイツ国旗の波がうねっていた。

拡声器からは、声高な演説が響き渡る。


「政府は我々の魂をモスクワに売り渡した!

我々の主権を、ロシアの宇宙開発という名の幻想のために犠牲にするというのか!

ドイツの雇用と産業を守れ!」


その数キロ先、国会議事堂の前では、全く別の色の旗が揺れていた。

環境政党「未来の緑」が主導する、反核・反グローバリズムのデモ隊だ。


「シーメンスは、悪魔に魂を売った!

ロシアの核融合という危険な火遊びに、我々の地球の未来を賭けるな!

ドイツの技術は、母なる大地のために使われるべきだ!」


右から、そして左から。

二つの全く異なるイデオロギーが、奇妙なことに「現政権の打倒」という一点だけで共鳴し、連立政権を内側から引き裂いていく。


政府は完全に麻痺し、有効な手を何一つ打てずにいた。

この熱病の裏には、見えざる「医師」がいた。

ワシントンから、不透明なNPOや財団を経由して流れ込む資金が、両陣営の活動を静かに、しかし強力に後押ししていた。


――ベルリン、連邦憲法擁護庁(BfV)本部。

国内の過激派組織を監視するこの諜報機関の幹部は、自室で一本の暗号化されたメッセージを受け取った。添付されていたのは、ジュネーヴのプライベートバンクにおける、彼の個人口座の取引明細だった。

十数年前に、CIAとの非公式な協力の見返りとして受け取った、決して表には出せない金の流れ。


メッセージは、短かった。


――『嵐が過ぎるまで、静観せよ』


幹部は、顔から血の気を失い、震える手でメッセージを消去した。

数分後、彼は部下に対し、不可解な指示を出した。


「デモは市民の正当な権利だ。過度な介入は避け、監視に徹しろ」


国家の治安組織は、握られた弱みによって、その機能を静かに停止させられた。

――そして、アメリカの真の狙いは、さらに深い場所へと向けられていた。


ドイツ西部、ラムシュタイン米空軍基地。

NATOの欧州連合軍最高司令官であるアメリカの四つ星将軍が、旧知の仲であるドイツ連邦軍の将軍を、プライベートな夕食に招いていた。

長年、共に訓練を重ね、互いを戦友と認めてきた二人の間には、硬い信頼関係があった。


「ハインツ」


アメリカのジョン・マクドナルド将軍は、ワイングラスを傾けながら、親しげに、しかし真剣な眼差しで語りかけた。


「我々は共に、自由と民主主義という価値を守るために、この軍服を着ている。そうだな?」

「もちろんだ、ジョン。今さら何を」


ハインツ・シュタイナー連邦軍少将は、疑問符を浮かべる。


「その価値が、今、君の国の政府によって、内側から脅かされているとしたら?」


マクドナルドの声が、わずかに低くなった。


「ベルリンの今の動きは、NATOという我々の同盟の基盤を揺るがしている。

これは、ロシアを利するだけの、あまりに危険な賭けだ。

我々軍人は、政治家の過ちを、黙って見ていることしかできないのか」


彼は、ハインツの目をじっと見つめ、そして、最後の、そして最も危険な囁きを放った。


「もし、この混乱を収拾し、ドイツの、そしてNATOの本来あるべき姿を取り戻すために、君のような愛国的な軍人が『国家を安定させるための行動』を起こすというのなら…。

ワシントンにいる我々友軍は、その勇気ある決断を、最大限の理解と共感をもって支持することを、約束しよう」


それは、クーデターの教唆だった。


決して証拠の残らない、戦友同士の会話という形をとった、あまりにも甘美で、致命的な毒。

ハインツは、言葉を失った。

ただ、ワイングラスを握る自らの指が、白くなるほど力を込めていることに気づいただけだった。


ベルリンの熱病は、今や、政治の中枢だけでなく、国家の根幹である軍隊の血管にまで、静かに侵入し始めていた。

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