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新しい航路

2016年 秋。


アメリカが放った司法と金融という名の巡航ミサイルは、正確に欧州経済の中枢に着弾した。


シーメンス社の株価は低迷を続け、拘束された役員の解放交渉は難航。

欧州の産業界は、アメリカの「見えざる手」が、いつでも自分たちの喉元を締められるのだという恐怖に、静かに震えていた。


その混乱の只中、セルゲイ・ヴォルコフはモスクワを発った。

彼の目的地は、この危機の発火点であり、そして震源地でもあるドイツだった。


――ミュンヘン、シーメンス本社。


ディートリッヒ会長の執務室は、まるで戦場の司令部のようだった。

ひっきりなしに内外の電話が鳴り、弁護士と広報担当者が青い顔で行き交っている。


その中心で、ディートリッヒは数ヶ月前よりも遥かに老け込んだように見えた。


「…見ての通りだ、ヴォルコフ長官」


ディートリッヒは、かすれた声で言った。


「アメリカは、我々を本気で潰すつもりのようだ。

独立の代償は、あまりにも高くついた」


「代償ではありません、会長」


ヴォルコフは、その喧騒の中で、ただ一人、嵐の目のように静かだった。


「これは、古い鎖に繋がれたままでいることの“危険性”が、可視化されたに過ぎません。

問題はアメリカの攻撃性ではない。

あなた方が、彼らのシステムに依存しすぎているという、その構造そのものです」


ヴォルコフは、ディートリッヒの正面に座ると、まるで長年の友人に助言するように、静かに語り始めた。


「私は今日、あなた方をアメリカの司法の鎖から解放する提案を持ってきました。

我々が構築しつつある、西側の金融システムを介さない、新しい決済ルート。

上海、ムンバイ、サンパウロの銀行網と、我々の政府系ファンドが、あなた方の取引の安全を保証する。

そして、中国やインド、ブラジルといったBRICS諸国と我々が結ぶ、巨大なサプライチェーン。

アメリカ製の部品やソフトウェアに一切依存しない、完全な供給網です」


それは、悪魔の囁きだった。


ドル基軸体制からの離脱。

SWIFT網からの解放。

あまりにも壮大で、危険な提案。


「あなた方が失うのは、アメリカという一つの市場かもしれません。

しかし、会長」


ヴォルコフは、ディートリッヒの目を真っ直ぐに見据えた。


「あなた方が手にするのは、ワシントンの政治家の気まぐれに左右されない、より巨大で、より安定した、新しい世界市場です。もちろん、決めるのはあなた方だ。

我々は、シーメンス社の判断を、全面的に尊重する」


ディートリッヒは、何も答えなかった。

ただ、その瞳の奥で、巨大な天秤が、ゆっくりと、しかし確実に傾き始めるのを、ヴォルコフは見逃さなかった。


――ベルリン、ドイツ連邦首相府。


次にヴォルコフが訪れたのは、政治の中枢だった。

首相 カール・ヴェルナーとの会談は、極秘裏に、そして緊張の中で行われた。


「シーメンスへの攻撃は、始まりに過ぎません、首相」


ヴォルコフは、ヴェルナーを前に、冷徹な事実を告げた。


「今日、彼らがシーメンスにしたことは、明日にはフォルクスワーゲンやバイエルにも起こりうる。

これは、一企業の問題ではない。

ドイツの、そして欧州の主権そのものに対する攻撃です」


「アメリカは、鎖に繋がれていない者を罰する。

ならば、残された道は一つ。

我々と共に、その鎖そのものを断ち切るしかありません」


ヴォルコフは、一枚のデータシートをテーブルの上に置いた。

それは、OD-2の軌道工場で製造が予定されている、次世代の炭化ケイ素半導体と、自己修復機能を持つ超軽量合金の性能予測データだった。


「我々は、これらの戦略物資の優先供給を、欧州に約束します。

これを使えば、あなた方の産業は、米国の技術的優位性を過去のものにできる。

完全な『技術的デカップリング』です。


彼らがソフトウェアで世界を支配するなら、我々は、そのソフトウェアを動かす物理的な『脳』と『身体』そのものを、宇宙で作り出す」


ヴォルコフは立ち上がり、窓の外に広がるベルリンの街並みを見つめた。


「我々は、あなた方に何かを強制するつもりは毛頭ない。


我々は、新しい航路を切り拓いているだけです。

あなた方は、その船にパートナーとして乗り込み、共に新しい大陸を目指すか。

それとも、嵐が吹き荒れる旧大陸に留まり、アメリカの庇護を請い続けるか。


どちらの道を選ばれても、我々は友人としてのあなた方の決断を尊重する。

ただ、我々の船は、もうすぐ出航します」


――会談を終え、専用機でモスクワへと戻る機中。


パーヴェルが、不安げにヴォルコフに尋ねた。


「長官。彼らは、我々の手を取るでしょうか。

あまりに危険な賭けです」


「彼らに、選択の余地はないのだよ、パーヴェル」


ヴォルコフは、眼下に広がる雲海を見下ろしながら、静かに答えた。


「私が彼らに提案したのは、ロシアかアメリカか、という選択ではない。

属国であり続けるか、それとも誇りある国家となるか、という選択なのだ。

欧州という名の、自立した共同体を再興する、という誘惑を、ドイツの指導者が永遠に拒み続けられるはずがない」


ヴォルコフの瞳には、アメリカの報復によって生まれた混沌の先に、自らが描いた新しい世界地図が、すでにはっきりと見えていた。


アメリカの攻撃は、欧州を屈服させるどころか、彼らを古い鎖から解き放ち、新しい航路へと無理やり押し出す、強力な追い風になろうとしていた。

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