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独立の代償

2016年 夏、ワシントンD.C.


ホワイトハウスのウエストウイング地下、シチュエーション・ルーム。

その部屋の空気は、フィルターで濾過された人工のそれよりも、さらに冷え切っていた。


大統領を前に、国家安全保障担当補佐官、CIA長官、そして司法長官代理が、重い沈黙の中でテーブルを囲んでいる。


壁のスクリーンには、ミュンヘンから発信されたシーメンス会長ディートリッヒの声明と、それに呼応するように発表されたESA(欧州宇宙機関)の「対露戦略的パートナーシップの深化」に関するプレスリリースが、並べて表示されていた。


「…欧州は、選択した」


最初に沈黙を破ったのは、大統領だった。

その声は、怒りよりも冷たい失望に満ちていた。


「彼らは我々の同盟という盾を捨て、ロシアの描く未来という名の蜃気楼を選んだ。

結構だ。

ならば、今から彼らには、その独立の代償というものを、骨の髄まで学んでもらうことになる」


彼は司法長官代理に視線を向けた。


「準備はできているな?」


「はい、閣下」


司法長官代理は、分厚いファイルを静かに開いた。


「我々のアーカイブには、友人が道を間違えた時のために、埃を被ったまま保管されている“武器”が、常にいくつか用意されています」


その日、アメリカという巨人は、軍事力ではない、もう一つの、そしてより強力な腕を振り下ろした。


――――――――――


同日午後、司法省・記者会見室。


世界中のメディアが見守る中、司法省の報道官が、淡々と、しかし有無を言わせぬ口調で声明を読み上げた。


「合衆国司法省は、ドイツのシーメンスAG社に対し、海外腐敗行為防止法(FCPA)に関わる複数の重大な違反容疑で、包括的な調査を開始したことを発表します。

本件は、同社が数年前にアフリカおよび中東地域で行ったインフラ事業に関するものです」


会場がどよめいた。

誰もが、ロシアとの宇宙開発を巡る緊張と結びつけて質問をしようとしたが、報道官は「本件は、それらとは一切関係のない、純粋な法執行活動です」という一点張りで、全ての質問を打ち切った。


ニュース速報のテロップが世界を駆け巡り、フランクフルト市場が開くと同時に、シーメンスの株価は垂直落下を始めた。


だが、それはまだ、序曲に過ぎなかった。


――――――――――


翌朝、シンガポール。マリーナベイ・サンズの最上階。


シーメンス社のエネルギー部門担当上級副社長、クラウス・フィッシャーは、朝食前のコーヒーを飲みながら、眼下に広がる美しい湾の景色を眺めていた。

ロシアとの核融合炉開発に関する、アジアの投資家との会合は成功裏に終わった。

あとは昼の便でミュンヘンに戻るだけだ。


その平穏な朝を、ホテルの部屋のドアをノックする音が破った。


ドアを開けると、そこにはシンガポール警察の制服を着た数人の男たちが、硬い表情で立っていた。


「クラウス・フィッシャー氏ですね」


部隊長らしき男が、手にした書類を示した。


「アメリカ合衆国司法省からの国際逮捕手配に基づき、あなたを逮捕します。

容疑は、合衆国の輸出管理法に違反する、機微なデュアルユース技術の不正移転共謀です」


フィッシャーは、一瞬、言葉の意味が理解できなかった。

コーヒーカップが、手から滑り落ち、床で甲高い音を立てて砕け散った。


これは、司法手続きではない。

人質外交だ。

欧州の産業界全体に向けた、あまりにも露骨な、そして効果的な脅迫だった。


――――――――――


パリ、ESA本部。


ジャン=ピエール・アルノーの執務室の端末に、一通の緊急メールが届いた。

差出人は、NASA長官チャールズ・ボレンス。


件名:『戦略的協力関係の一時凍結について』


本文は、冷たい官僚用語で埋め尽くされていたが、その内容は、事実上の絶縁状だった。


『…ロシア連邦とのパートナーシップに関する貴機関の最近の決定に鑑み、合衆国政府は、国家安全保障上の観点から、ESAとの全ての戦略的協力関係を、追って通知があるまで一時凍結する。

SLS計画および月周回軌道ゲートウェイ計画における、ESAのアクセス権限は本日付で停止される…』


アルノーは、メールを最後まで読むことなく、ウィンドウを閉じた。


(…始まったか)


彼の脳裏で、最悪のシナリオが、ついに現実の輪郭を結んだ。


――――――――――


ベルリン、ドイツ連邦首相府。


緊急招集された安全保障会議の空気は、まるで告別式のようだった。


シーメンス株の暴落、そして、シンガポールでの上級役員の拘束。

アメリカの攻撃は、彼らの予測を遥かに超え、迅速かつ無慈悲だった。


「これは警告などではない!」


外務大臣が、声を荒らげた。


「宣戦布告だ。

ただし、銃弾の代わりに、法とドルを使うという、我々が最も戦い慣れていない戦争の…」


首相 のヴェルナーは、顔を覆ったまま、何も言えなかった。


ディートリッヒが語った「第三極」への道。

その最初の景色が、これほど荒涼とした焦土だとは、誰が想像できただろうか。


独立には、代償が伴う。

そして、アメリカは今、その請求書を、ドイツと欧州の心臓部に、容赦なく突きつけていた。

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