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パートナー

2016年 春、モスクワ。


ロスコスモス本部のヴォルコフの執務室は、静かな狩りの前の緊張に満ちていた。


壁の巨大スクリーンには、パリとブリュッセルからリアルタイムで送られてくる情報が、無数のウィンドウとなって表示されている。

ESA(欧州宇宙機関)の内部メール、各国の外交公電の断片、そしてメディアの観測記事。


その全てが、一つの事実を示していた。


欧州という巨人は、アメリカからの圧力という名の棍棒で殴られ、内部分裂という悪夢にうなされ、今やその動きを完全に止めている。


「長官。ESA理事会は、対米・対露政策の基本方針を巡り、三日連続で何の結論も出せずに閉会しました」


首席補佐官のパーヴェルが、淡々と報告する。


「彼らはもう、組織としては機能していません。ただの、利害が対立する国家の寄せ集めです」

「結構だ」


ヴォルコフは、スクリーンから目を離さずに言った。


「瀕死の獣にとどめを刺す必要はない。ただ、その目の前に、三つだけ餌を置いてやればいい。

そうすれば、彼らは残った最後の力で、仲間同士で喰らい合うだろう」


ヴォルコフは、最後の楔を打ち込む決断を下した。

ESAという、もはや形骸化した組織を完全に無視し、その心臓部である国々へ、直接、甘美な毒を送り込む。


その日の午後。

ドイツ航空宇宙センター(DLR)、フランス国立宇宙研究センター(CNES)、そしてイタリア宇宙機関(ASI)のトップの元に、ロスコスモス長官セルゲイ・ヴォルコフ個人からの、極めて丁重な、しかし有無を言わせぬ内容の招待状が、暗号化された外交ルートで届けられた。


――『皆様へ。

来る2017年、我々のプロトタイプ往還船『ナジェージダ』は、初の月周回軌道への長期航行試験という、歴史的な一歩を踏み出します。

この人類の新たな夜明けを、我々ロスコスモスは、最も信頼するパートナーと共に迎えたいと考えています。


つきましては、この記念すべき航海に、貴国の宇宙飛行士一名と、貴国の誇る科学実験パッケージを、無償で招待したい。

ただし、用意できる座席は、三つしかありません。


この三つの席が、どの国によって占められることになるか。

それは、今後数十年の宇宙開発の歴史において、誰が我々のパートナーであるかを、静かに、そして雄弁に物語ることになります。

良きご決断をお待ちしています』


その文面に、脅迫の言葉は一言もなかった。

だが、そこには「選別」という、冷たい刃が隠されていた。


イギリスや、アメリカ寄りの他の小国には、この招待状自体が送られていないという事実が、その刃の鋭さを物語っていた。


案の定、欧州はパニックに陥った。

ベルリン、パリ、ローマで、秘密裏の電話会談が繰り返される。


「フランスは、すでに水面下でロシアと合意しているのではないか?」

「イタリアが、我々を出し抜いて独自の協定を結ぶ気では?」


疑心暗鬼の毒が、瞬く間に欧州のエリートたちの間に広がっていく。


ESAの「全会一致」という美しい理想は、国家の剥き出しの生存本能の前に、無力だった。

各国が、組織としての決定を待たず、我先にとモスクワとの個別交渉へとなだれ込む――ヴォルコフが描いたシナリオ通りに、全てが進むかに思われた。


だが、ヴォルコフは、欧州の底力を見誤っていた。


ドイツ首相府。

緊急招集された安全保障会議で、首相 カール・ヴェルナーはディートリッヒ会長からの電話の内容を、一言一句違わずに閣僚たちに伝えた。


「…ヴォルコフは、我々を試している。

我々が、彼の掌の上で踊る、目先の利益に弱い、ただの操り人形であるかどうかを。


ここで我々が個別交渉に応じれば、欧州は完全に分裂し、ロシアの思う壺だ。

我々が今示すべきは、ロシアへの媚びへつらいではない。独立した極としての、欧州の矜持だ」


その言葉は、遠くフランス大統領の心を動かした。

アメリカの横暴にも、ロシアの傲慢にも屈しない、強い欧州。


それは、ド・ゴール以来のフランスの夢だった。


ESA本部では、アルノー副長官が必死に各国の代表を説得して回った。


「我々が団結して交渉すれば、三つの席ではなく、この船の操縦桿の一部を要求できる!」


激論の末、奇跡は起きた。

欧州は、ヴォルコフの仕掛けた分断の罠を踏みとどまった。


数日後。

ヴォルコフの元に届いたのは、個別交渉を求める嘆願書ではなく、ESA長官の名で送られてきた、ただ一通の公式文書だった。


その内容は、簡潔かつ、力強いものだった。


――『貴殿の寛大な申し出に感謝する。

その歴史的航海の成功のため、ESAは、単なる客人の一人としてではなく、対等な戦略的パートナーとして、航行計画、安全基準策定、そして将来の共同船体開発の全てにおいて、全面的に協力する用意がある』


パーヴェルは、その文書を読み上げ、悔しそうに顔をしかめた。


「…失敗です。彼らは、我々の誘いに乗らなかった」


「いや」


ヴォルコフは、静かに首を振った。

その口元には、かすかな、そして満足げな笑みが浮かんでいた。


「彼らは、乗ったのだよ。我々が作った、新しい船に。

ただ、客室ではなく、操舵室に乗り込んできた、というだけだ」


アメリカが「同盟」という名の鎖で欧州を縛ろうとしたのに対し、ヴォルコフは「未来」という名の甘い毒で、その鎖を内側から腐食させ、断ち切ることに成功した。


その目的は、達成された。

だがその手を結ぶ相手は、彼が望んだような、御し易い駒ではなかった。

自らの意志で立つ、手強いパートナーだった。


長く、そして複雑だった第一段階は、ロシアの限定的な勝利で、静かに幕を閉じた。


そして、米・露・欧が鼎立する、新たな時代の幕が、今、静かに上がろうとしていた。

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