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狭間の記憶

ミュンヘン、シーメンス保養施設。


セルゲイ・ヴォルコフが去った後の談話室には、暖炉の火が燃える音だけが響く、静寂に包まれていた。


ハンス・ディートリッヒは、テーブルの上に広げられた『オグネヴィークI』の設計概念図から、ゆっくりと視線を上げた。

その青白い光を放つドーナツ状の装置は、人類の未来そのものを約束しているようだった。


だが、ディートリッヒの心は、その輝かしい未来図には向いていなかった。


彼の脳裏で反芻されていたのは、ヴォルコフという男の言葉であり、その背後にあるロシアという国家の、常軌を逸した動きそのものだった。


(彼らは空を見ている…)


ディートリッヒは椅子から立ち上がり、窓辺へと歩いた。

ガラスの向こうでは、粉雪がミュンヘンの街を白く染め始めている。


(彼らは国家の全ての資源を、ただ一点、宇宙へと注ぎ込んでいる。その狂気的な集中力は、確かに驚異的な力を生み出した。

だが、それはあまりにも歪だ。まるで、片腕だけが異常に発達した巨人のように…)


その歪さが、ディートリッヒの心の奥底に眠っていた、古い記憶を呼び覚ました。


子供の頃の記憶。

ベルリンの壁。鉄条網。


世界が二つに引き裂かれ、ドイツがその最前線で、アメリカとソ連という二人の巨人の駒として弄ばれた、あの屈辱の日々。

自分たちの運命を、自分たちで決められないという無力感。


西側の自由を享受しながらも、常に東側の巨大な影に怯え、ワシントンの顔色を窺い続けた、あの半身の独立。


(…また、同じことを繰り返すのか)


ディートリッヒは、固く拳を握りしめた。


今、世界は再び二人の巨人のチェス盤になろうとしている。

宇宙という、より広大で、より危険な盤上へと。


アメリカは「同盟」という名の鎖を、ロシアは「利益」という名の甘い毒を、それぞれ欧州に差し出している。

どちらの手を取っても、待っているのは駒としての未来だ。


(…だが、駒でいることを拒否する道も、あるはずだ)


ディートリッヒは、その足で本社の執務机に戻ると、迷うことなく、ベルリンの首相官邸へと繋がる、暗号化された特別回線に手を伸ばした。

コール数回で、相手が出た。


「…私だ、ディートリッヒだ。首相にお繋ぎ願いたい。緊急の、そして国家の将来に関わる話だ」


数分の沈黙の後、受話器の向こうから、聞き慣れたドイツ首相 カール・ヴェルナーの、疲労を帯びた声が聞こえてきた。


「ハンス、一体どうしたというんだ。パリの件なら、今まさに閣議で…」


「首相。今、我々が下すべき決断は、パリで突きつけられた二者択一ではありません」


ディートリッヒの声は、静かだったが、鋼のような意志が込められていた。


「我々は、第三の道を選ぶべきです。

アメリカの属国でもなく、ロシアの顧客でもない。

欧州が、EUが、自立した『第三極』となる道です」


受話器の向こうで、ヴェルナーが息を呑むのが分かった。


「アメリカは激怒するでしょう。我々を同盟から排除しようとさえするかもしれない。

ですが、私たちはアメリカと完全に手を切るべきではない。

彼らは今も、そしてこれからも、我々の重要なパートナーです。市場であり、価値観を共有する友人です」


ここでいったん言葉を切り、ディートリッヒは息を吸い込む。


「しかし」


その言葉には、強い熱情がこもっていた。


「宇宙開発においては、我々はロシアと手を結ぶ。

彼らの歪な力を利用し、制御し、そして我々の力へと転換させるのです。

アメリカに技術的に先んじることで、我々は初めて、彼らと対等な交渉のテーブルに着くことができる」


それは、あまりにも危険な綱渡りだった。

だが、ディートリッヒの頭の中では、その未来図が明確に見えていた。


「首相、これは、欧州が自立した経済圏であり続けるための、唯一の道です。

かつてのように、二人の巨人の間で脅え、分断されるのではなく、我々自身が第三の巨人となるのです。

そのための、茨の道を進む覚悟が、あなたにおありか、と問いたい」


彼は、一度言葉を切り、そして、一人のドイツ国民として、心の底からの言葉を絞り出した。


「どうか、お願いしたい。あの屈辱を、我々の子供たちの世代に、二度と味わわせないために」


電話の向こうの沈黙が、この提案の持つ重さを物語っていた。

ディートリッヒは、ただ静かに、その返事を待っていた。


窓の外では、雪が、より一層、激しくなっていた。

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