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ミュンヘンの誘惑

この話でNATOがウクライナに駐留しているという、歴史が変わっている点が気になりましたら、並列で書いてる"灰色の空、かすかな光 "を確認ください。ちょうど1990年代の歴史がゆがんでる最中となります。

2016年 3月 ミュンヘン


バイエルン地方の冬は、まだ終わる気配を見せなかった。

シーメンス保養施設にある談話室では、巨大な防弾ガラスの向こうで、粉雪が舞い始めている。


しかし、室内の空気は、暖炉の火と男たちの野心によって、乾燥し、熱を帯びていた。


「パリは、さぞ寒かったでしょう」


暖炉の前に立つセルゲイ・ヴォルコフが、ドイツ産業界の皇帝、ハンス・ディートリッヒ会長に静かに語りかけた。

その声には、同情でも嘲笑でもない、ただ事実を確認するような平坦な響きがあった。


「我が国のロケットと、アメリカの脅迫。

 ESAは一度に二つの葬儀の主役をする羽目になったと聞いています」


ディートリッヒは、革張りの椅子に深く身を沈めたまま、指先でグラスを弄んだ。


「…あなたの耳には、何でも入るらしいな、ヴォルコフ長官」


「アメリカは、あなた方に親切心を見せてくれたのですよ」


ヴォルコフは、ディートリッヒの正面の椅子に腰を下ろした。


「彼らの『友情』には、値札が付いているということを、はっきりと示してくれた。

SLS計画という名の“鎖”に繋がれ、彼らのルールに従い続けるか、それとも…。

彼らは、あなた方に選択を迫っている」


ヴォルコフは、ここで一度言葉を切り、ディートリッヒの目を真っ直ぐに見据えた。

そして、あのカードを静かに切った。


「我々ロシアと、あなた方ドイツは、もっと違うやり方を知っているはずです。

真の安定というものが、隣人を脅し、力で押さえつけることでは決して築かれないということを。

…我々は昨年、ドニエプル川の岸辺で、それを証明した。

誰もが力による介入を叫ぶ中で、我々は自制という、最も困難な道を選んだ。

なぜなら、それが欧州全体の長期的な安定に繋がると、信じていたからです」


その言葉に、ディートリッヒの眉がわずかに動いた。


ウクライナ。2014~2015年の内戦。"NATOが支援するウクライナ政府"に対する大規模騒乱。

1998年の"あの事件"から不本意にもNATOが抱え込んだ、ウクライナ政府への明確な攻撃だった。

アメリカとイギリスがロシアの介入を声高に叫ぶ中、ロシア正規軍はクリミアの租借地から一歩も出ず、難民を受け入れ、仏独のジャーナリストを自由に取材させた。


結果、欧州大陸の世論は「ロシアは、もはやソ連ではない」という認識に傾き、米英と仏独の間に決定的な亀裂が生まれていた。

ヴォルコフは、その亀裂に、今、くさびを打ち込もうとしているのだ。


「アメリカがあなた方に差し出しているのは、過去の時代の“鎖”です。

私が今日、お持ちしたのは、未来への“鍵”です」


ヴォルコフは、アタッシュケースから一枚の設計概念図を取り出し、テーブルの上に広げた。


そこに描かれていたのは、ロケットでも衛星でもない。

青白い光を内部に宿した、ドーナツ状の美しい装置。


艦内設置型・コンパクト核融合炉『オグネヴィークI』。


「…これは」


「ヴォストーク級の心臓です。

そして、いずれは地球の心臓にもなるでしょう」


ヴォルコフの声は、預言者のような確信に満ちていた。

次世代型艦船発電機としてではない、ロシアが提唱した"未来への鍵"だと、疑いがない素振りだった。


「しかし、この心臓を動かす『神経』…つまり、プラズマをナノ秒単位で制御し、エネルギーを安定して取り出すための電力システムが、我々にはまだ足りない。

これには、シーメンス社の、そしてドイツの魂とも言える、世界最高の制御技術が不可欠なのです」


ディートリッヒは、かすかに喉を鳴らした。


SLSの部品作りなどとは、比較にすらならない。

人類のエネルギー史そのものを塗り替える、巨大な事業への招待状が、今、目の前に置かれている。


「これは、国家間の条約ではありません、会長」


ヴォルコフは、とどめを刺した。


「あくまで、ロスコスモス傘下の新エネルギー企業と、シーメンス社との民間レベルでの技術提携です。

あなた方が調印するのは、政治的なリスクではなく、未来のエネルギー市場における、莫大な利益に対する契約書です。

成功すれば、あなた方はこの核融合の特許を、欧州における独占的ライセンスとして手に入れることになる」


それは、悪魔の囁きだった。


アメリカとの同盟を裏切るのではない。

ただ、一企業として、純粋なビジネスを行うだけだ。

政府には、そう説明すればいい。


その誘惑は、あまりにも甘美だった。


「アメリカは、鎖を差し出した。

私は、パートナーシップを」


ヴォルコフは立ち上がり、暖炉の前に戻った。


「どちらの手を取るか。

それは、ドイツが決めることです」


部屋には、暖炉の薪がはぜる音だけが響いていた。


ディートリッヒは、目の前の設計図と、ヴォルコフの背中を、まるで幻でも見るかのように、ただ黙って見つめていた。

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