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パリの二重葬送

2016年 2月 パリ ESA本部


鉛色の空から降り注ぐ冷たい雨が、欧州宇宙機関(ESA)本部のガラス窓を静かに叩いていた。


大会議室の重厚なマホガニーのテーブルを囲む男たちの表情は、パリの空模様と酷似していた。

希望も熱気もない、ただ重苦しい沈黙だけがそこにはあった。


スクリーンには、次期大型ロケット「アリアン6」の壮麗なCG映像が映し出されている。

流線形の美しいフォルム、力強いブースター。

欧州の技術の粋を集めた、純白の希望の船。


だが、宇宙輸送部門副長官ジャン=ピエール・アルノーの目には、それが豪華な墓石にしか見えなかった。


「…以上で、アリアン6計画の最終構想に関する報告を終わります」


プロジェクト責任者の説明が終わると、まばらで、どこか義務的な拍手が起きて消えた。

ESA長官が総括の言葉を述べようと口を開きかけた、その時だった。


「一つ、よろしいか」


声の主は、財務部長のディーターだった。

彼は分厚い予算報告書をテーブルに滑らせ、無慈悲な事実を突きつけた。


「この計画が完璧に成功したとして、我々が達成できるGTO打ち上げコストは、1kgあたり3,500ユーロ(約5000ドル)。

素晴らしい数字だ。…もし、10年前の市場であれば」


ディーターは、アルノーと、その隣に座る推進技術部長のイザベルを一瞥した。

イザベルの顔に影が走る。


「一方、ロシアの『ソコルC』は、先週、民間の通信衛星を1kgあたり1,000ユーロ未満で打ち上げている。

我々は、3倍以上のコストをかけて、すでに旧式となった技術を完成させようとしている。

これは開発計画ではない。

ただの葬儀だ。

我々自身の、な」


「ディーター!」


技術者のプライドを傷つけられたイザベルが、鋭く反論する。


「コストだけの問題ではないわ!

アリアンには信頼性がある!

欧州が半世紀かけて築き上げてきた、完璧な品質管理と安全基準が!」


「その信頼性に、クライアントは三倍の金を払ってくれるのかね?」


ディーターは冷ややかに肩をすくめた。

ただ彼自身は職責として言っているのがアルノーにはわかった。

楽観論に対する義務としてだ。


「聞かせてもらいたいものだ」


イザベルが口を開き、口論が始まろうとした、その空気を断ち切るように、会議室の扉が静かに開いた。

入ってきたのはESA長官の首席秘書官だった。

その顔は青ざめている。

彼は長官の耳元で何かを囁いた。

長官の表情が、見る間に凍りついていく。


「…諸君」


長官の声は、かすかに震えていた。


「たった今、ワシントンのNASA長官から非公式な連絡が入った。…これは、命令と言っていいだろう」


彼は一度言葉を切り、そして、第二の死亡宣告を告げた。


「ロシアとの宇宙協力を現在のレベルで継続、あるいは拡大しようとするならば、アメリカは、ESAが現在参加しているSLSスペース・ローンチ・システム計画およびオリオン宇宙船開発の枠組みから、欧州を完全に除外する、と。

全ての技術情報の共有は、即時停止される」


今度こそ、会議室は完全な静寂に包まれた。


経済的な死。

そして、政治的な死。


同盟国であるはずのアメリカに、喉元へナイフを突きつけられたのだ。

ロシアという巨大な熊に怯え、アメリカという飼い主の元へ逃げ帰るか、それとも…。

選択の余地は、もはやないように思えた。


同日夕刻 アルノーの執務室


アルノー、ディーター、イザベルの三人は、言葉もなく窓の外の雨を眺めていた。


「アメリカの傲慢さには反吐が出るわ」


最初に沈黙を破ったのはイザベルだった。


「我々を対等なパートナーではなく、ただの属国としか見ていない!」


「だが、彼らの言うことにも一理あるよ」


ディーターは、誠実な、コスト管理者として言った。


「我々はロシアの安い打ち上げコストという麻薬に、知らず知らずのうちに依存しすぎていた。

アメリカは、その禁断症状が起きる前に、目を覚ませと言っているんだ」


「目を覚ました先にあるのは、アメリカの完全な支配だ」


アルノーは、二人の会話に割り込んだ。

彼の声は、疲労で重く沈んでいる。


「ディーター、君が言った通り、今日は葬儀だった。

だが、一つだけ間違っている」


彼は、二人の顔を交互に見据えた。


「これは、二重の葬儀だった。

一つは、ロシアによって経済的に殺された、我々の商業宇宙輸送の葬儀。

そしてもう一つは、アメリカによって政治的に殺された、我々の独立した宇宙開発の葬儀だ」


アルノーは、机の上に置かれた二つのファイル――「アリアン6計画最終報告書」と「SLS計画共同開発規約」――を指差した。


「そして、この二つの葬儀は、偶然ではない。

まるで、同じ一人の司祭によって、完璧なタイミングで執り行われているかのようだ」


その「司祭」が誰であるか、彼は口にしなかった。

だが、その瞳の奥には、モスクワのクレムリンで冷徹にチェス盤を眺めているであろう、あの男の姿がはっきりと見えていた。

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