停滞の海
2014年 年末
地球と月の狭間で、『ナジェージダ』と名付けられた人類の希望は、静かなテスト飛行を繰り返していた。
その様子は、モスクワの国営放送によって英雄譚として語られ、ワシントンの地下司令室では脅威分析の対象として分析された。
だが、宇宙で交わされる探り合いとは裏腹に、地上では奇妙な握手が交わされていた。
2015年 春 ニューヨーク
マンハッタンの摩天楼、その一室。ガラス張りの会議室から見下ろすウォール街は、まるで黄金の回路基板のように、野心と欲望のエネルギーで明滅している。
「…つまり、OD-2は単なる“宇宙の製鉄所”に留まりません」
セルゲイ・ヴォルコフは、世界の金融を支配する投資家たちを前に、流麗な英語で語りかけていた。その声には、技術者としての実直さと、興行師のような人を惹きつける魅力が同居している。
「宇宙の超真空と微小重力環境は、地上では決して到達不可能な、完璧な結晶を育てます。これは、次世代の医薬品を開発するためのタンパク質であり、ムーアの法則の限界を打ち破る、究極の半導体ウェハーです。皆様が今投資するのは、ロケットではなく、新しい産業革命そのものなのです」
プレゼンが終わると、熱狂的な拍手と、鋭い質問の嵐が巻き起こった。熾烈な諜報戦を繰り広げているはずの米露関係など、この部屋では些細なローカルニュースに過ぎない。利益こそが、彼らの唯一の共通言語だった。
その喧騒の片隅で、ヴォルコフは自分に向けられる数多の視線の中に、質の違うものを感じていた。
それは、投資家の貪欲な視線ではない。獲物の動きを冷静に分析する、狩人の視線。CIAの「お目付け役」だ。
だが、ヴォルコフは彼らを意に介さなかった。むしろ、見せつけるように堂々と振る舞った。
ニューヨークでの資金調達ラウンドを成功させた後、ヴォルコフは専用機で西海岸へと飛んだ。
機内で、首席補佐官のパーヴェルが訝しげに尋ねる。
「長官。本当に、製薬会社や半導体メーカーを、我々の“船”に乗せるおつもりで?」
「乗ってくれるなら、それでもいい」
ヴォルコフは、窓の外の雲海を見ながら答えた。
「だが、本当の目的は別だ。ニューヨークの連中は、我々の“商品”にしか興味がない。だが、本当に世界を、そして未来の戦争を変えるのは、カリフォルニアのガレージで生まれる、たった一つの“概念”だ」
――――――――――
カリフォルニア州 マウンテンビュー
グーグル本社は、まるで大学のキャンパスのような、自由で楽観的な空気に満ちていた。色とりどりの自転車が行き交い、芝生の上ではエンジニアたちがラップトップを広げている。
この、世界の知性が集まる楽園に、ロシアの宇宙開発のトップが、黒塗りの車で乗り込んできた。
「ヴォルコフ長官、ようこそ」
出迎えたのは、AI研究部門のトップであるアーサー・チェン博士だった。彼は、この分野の生きる伝説だ。
「宇宙開発における、ビッグデータ解析での協力…実に興味深いお話です」
二人は、白い壁とガラスで構成された、ミニマルな会議室へと通された。
「博士」
ヴォルコフは、単刀直入に切り出した。
「我々は、全天の膨大な観測データの中から、意味のあるパターン…例えば、未知の小天体の軌道や、遠い恒星からのかすかな信号を、AIに自律的に発見させたい。今の技術で、それは可能ですか?」
チェン博士は、少し困ったように笑った。
「それは、SFの世界のAIですね、長官。残念ながら、今の我々の技術では、猫の画像を100万枚見せて、ようやくAIが『これは猫らしい』と認識できるレベルです。AIは、言葉やデータの“意味”を理解しているわけではない。ただ、膨大な統計データの中から、最も確率の高い答えを予測しているに過ぎないのです」
その答えは、ヴォルコフの予想通りだった。
だが、彼は最後の、そして最も重要な質問を投げかけた。
「では、博士。文章やデータにおける、単語や要素の関係性を、その距離に関係なく、一度に、並列で処理するような考え方は…?」
その瞬間、チェン博士の目がわずかに見開かれた。
「…面白い。実に面白いアイデアだ。まるで、文脈という名の重力場を、全ての単語が同時にお互い感じ取るような…しかし、それでは計算量が天文学的に爆発してしまう。どうやってそれを実装するというのです? 非現実的ですよ」
その言葉で、十分だった。
ヴォルコフは、穏やかに微笑み、当たり障りのない技術的な議論を続けた後、グーグル本社を後にした。
車に戻り、重いドアが閉まった瞬間、ヴォルコフは、運転席のパーヴェルに、静かに、しかし確信を持って告げた。
「…いなかった。この世界で、まだ“現代AI”は生まれていない」
未来メールが示した歴史では、この時期、すでに現代AIの根幹をなす『Transformer』モデルの基礎理論が、この場所で生まれているはずだった。
BERTや、その後の大規模言語モデルへと繋がる、知性の爆発的な進化の火種が。
だが、それは、なかった。歴史は、また一つ、未知の領域へと逸脱した。
『ウラジーミル』という名の、殺されたはずの亡霊。
そして、生まれてこなかった、AIという名の劇薬。
ヴォルコフは、自分が今、羅針盤も海図もない、停滞した未知の海に、たった一人で漂っていることを、改めて痛感していた。
彼の背後、グーグルの社屋の屋上で、何気なく空を眺めている男のイヤホンに、ワシントンからの短い指示が届く。
『…ターゲットは西海岸を離脱。追跡を継続せよ』
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