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核熱ロケット

2014年 11月


その日、世界のニュースネットワークは、一つの映像にジャックされた。


漆黒の宇宙空間を背景に、ゆっくりと──しかし圧倒的な威容をもって──銀色の巨体がその姿を現す。全長350メートル。モスクワ大学のスターリン・ゴシック様式の塔を横倒しにしたよりも、さらに長い。人類が建造した、史上最大の宇宙船。


その船体に、キリル文字で誇らしげに刻まれた名は『Надежда』(ナジェージダ)──希望。


ロスコスモスは、プロトタイプ往還船の進宙を、隠すどころか大々的に世界へ公開した。モスクワの赤の広場では、巨大スクリーンに映し出されたその姿に、市民が熱狂的な歓声を上げ、国旗を振った。それは、ロシアが再び宇宙の盟主へと返り咲いたことを告げる、国家的な祝祭だった。


だが、大陸の向こう側──ワシントンD.C.では、その祝祭は葬送の鐘のように響いていた。


「“希望”だと? 我々にとっては“絶望”の始まりだ」


ホワイトハウスの地下深く、シチュエーション・ルームで、CIA長官は吐き捨てるように言った。ファイブ・アイズと呼ばれる諜報同盟からリアルタイムで送られてくる『ナジェージダ』の観測データは、彼らが最も恐れていた悪夢が現実になったことを示していた。


ヴォルコフは、この進宙を、アメリカとその同盟国に対する明確な挑戦状として突きつけたのだ。警戒レベルは、冷戦期以来の最高潮に達した。


――――――――――――――――――


地球-月ラグランジュ点 L1(EML1)近傍


「…回転開始まで、30秒」


船長アンドレイ・ソロキンの冷静な声が、艦橋に響く。


窓の外には、息を呑むほど美しい、青と白のマーブル模様に彩られた雄大な地球と、その横に浮かぶ灰色の月が見える。だが、ブリッジにいる40名のクルーの誰も、その光景に見とれてはいなかった。彼らの視線は、計器パネルの数字と、これから始まる人類初の試みに注がれている。


「重力リング、回転開始します」


技術主任としてこの航海に帯同したアンナ・ベレゾフスカヤが、コンソールを操作する。船体中央に位置する直径80メートルのリング構造体が、音もなく、ゆっくりと回転を始めた。やがて遠心力が生まれ、床が足の裏に吸い付くような確かな重みを取り戻していく。クルーたちの間から、安堵のため息が漏れた。


「重力、0.38Gで安定。火星の表面と、ほぼ同じだ」


ソロキンは、壁に固定されていたペンを放す。ペンは、放物線を描いて緩やかに床へと落ちた。無重力に慣れた身体には少し重いが、心地よい感覚だった。


「さて、ベレゾフスカヤ主任。本題だ。例の“亡霊”は、まだ船内を彷徨っているかね?」


ソロキンの言葉に、ベレゾフスカヤは少し疲れた顔で笑みを返した。


「ええ、船長。ですが、今回は“檻”を用意してきました」


彼女がブリッジの一角にある生命維持システム(LSS)の監視パネルを指差す。そこには、船内の空気と水の循環を示す、二色のラインが描かれていた。


赤のラインは「ダーティ・ループ」。青のラインは「クリーン・ループ」。


ISS時代から、彼らを最後まで苦しめた、除去しきれない0.2%の微量な汚染物質。その最大の発生源は、人間の身体そのものと、各種科学実験だった。


「居住区画とブリッジは、完全に隔離された“クリーン・ループ”で循環させています。一方、ジムや実験室、廃棄物処理区画といった汚染源は“ダーティ・ループ”に集約。そして、二つのループを繋ぐフィルターシステムは、完全な二重系統化に成功しました」


ベレゾフスカヤはパネルのカバーを開け、カートリッジ式のフィルターモジュールの一つを、まるでプリンターのインクを交換するように、片手で引き抜いてみせた。


「従来のようにシステム全体を止める必要はありません。汚染が閾値に達したら、片方を動かしたまま、もう片方を交換するだけ。問題を根絶するのではなく、問題と共存し、完璧に管理する。これこそが、この船の哲学です」


それは、あまりにもロシア的な、不格好だが、どこまでも現実的で強靭な解決策だった。人類を火星へ運ぶ希望の船は、その内部に、永遠に消えることのない微量の「毒」を抱えながら、それでも飛び続けることを選んだのだ。


「見事なものだ」


ソロキンは頷いた。


「では、次の“政治ショー”の準備を始めようか」


彼は、船外に視線を移した。地球の引力圏を離脱し、ここまで約4日の航海を支えてきた化学エンジンブースターが、役目を終えて静かに動作を停止していく。


そして、船体後部に鎮座する三基の心臓──核熱ロケット(NTR)が、その姿を現した。


地球静止軌道(GEO)で、この核の炎を燃やすことは、政治的にあまりにセンシティブすぎた。核拡散防止条約に抵触しかねないという西側の批判を避けるため、ヴォルコフはあえて、この地球からも月からも監視しやすいラグランジュ点まで、旧来の化学エンジンで移動するという、遠回りな手順を選んだのだ。


「全クルーに通達。5分後、NTRの低出力燃焼試験を開始する。これは訓練ではない」


ソロキンの命令と共に、ナジェージダは、その真の力を世界に示すべく、準備を始めた。それは、技術的な試験であると同時に、「我々の核は、これほど透明性の高い場所で、平和的にしか使わない」という、西側に対する高度な政治的メッセージでもあった。


――――――――――――――――――


ワシントンD.C. 国家偵察局・宇宙監視センター


「…NTR、点火を確認。比推力、900秒をマーク。データに寸分の偽りもありません」


分析官の声が、静まり返った司令室に響く。


NASA長官ボレンスは、巨大スクリーンに映し出された、ナジェージダから放出されるプラズマのスペクトル分析データを、苦々しい表情で見つめていた。


「…やられたな」


ボレンスは、誰に言うでもなく呟いた。


「彼らは、我々が作った『ルールブック』を読み込み、その全ての抜け穴を利用して、我々の目の前で、自分たちの正当性を証明して見せた。技術的なハードルを越えただけではない。政治的なゲームにおいても、我々の一枚上手を行っている」


ロシアはただ船を飛ばしているのではない。彼らは、アメリカがこれから書こうとしている歴史の、次のページを、すでに読み終えているのだ。その絶対的な事実が、冷たい絶望となって、司令室の空気を満たしていた。



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