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最後の夏

2014年 冬。


その日、セルゲイ・ヴォルコフは、久方ぶりに訪れた何もない休日から逃げるように、自らの書斎へと籠っていた。


ここだけが、世界から彼を解放してくれる要塞であり、同時に、彼自身を閉じ込める独房でもあった。

凍てついたモスクワの空と同じ色の重いカーテンが引かれ、部屋は昼間だというのに薄暗い。


机の上には、OD-2の軌道力学に関する計算式が走り書きされた書類の山と、その横で場違いな光を放つ、カットグラスに注がれたウォッカだけがあった。


彼は、その冷たい液体を、薬のように、あるいは毒のように呷った。

これは鎮痛剤か、それとも忘却を促す毒か。

喉を焼くアルコールの熱が、ほんの一瞬だけ、胸に巣食う氷のような孤独を溶かす錯覚をもたらす。


だが、すぐに虚しさが倍になって返ってくるだけだった。

娘のマリアは、十五歳になる。

最後にまともに言葉を交わしたのは、いつだっただろうか。


彼女の部屋のドアは、ヴォルコフに対して常に固く閉ざされている。

その一枚の木製の扉は、彼が築き上げた宇宙の要塞よりも、遥かに難攻不落だった。

情けない、と自嘲する。


人類の未来をその両肩に背負っている男が、たった一人の娘の心さえ、救うことができない。

彼は、引き出しの奥から、一枚の古い写真を取り出した。

角が少し丸くなったその写真には、若き日の妻が、幸せそうに微笑んでいる。


ユキ──小日向 雪。


その名前を心の中で呟くだけで、ウォッカの酔いなど吹き飛んでしまうほどの、鮮烈な痛みが胸を貫いた。


彼は、写真の中の彼女の笑顔を見つめる。

すると、ウォッカのせいか、極度の疲労のせいか、書斎の薄闇が陽炎のように揺らぎ始めた。

遠い日の、二度と戻らない夏の光が、目の前に蘇ってくる。


意識が、白昼の光の中へと引きずり込まれていく。

……そこには、彼女がいた。


亡き妻、ユキが。


1999年 8月。あの夏、最後の夢。


大きな、臨月のお腹を愛おしそうに抱えながら、彼女は楽しそうに鼻歌を歌い、キッチンで朝食の準備をしていた。


窓から差し込む夏の朝の強い光が、彼女の艶やかな黒髪をきらきらと輝かせている。

その、あまりにもありふれた、穏やかな後ろ姿。


彼女は、日本の裕福な家の出だった。

しかし、大学で物理学を学ぶためにモスクワに留学し、そこで若き日のヴォルコフと恋に落ちた。

ソ連が崩壊し、経済が大混乱に陥っていたあの時代。


誰もがこの国から逃げ出そうとしていた時に、自らの意志でロシアに留まり、結婚することを選んだ。

周囲からは「変わり者」と見られても、決して負けることのなかった、あの勝ち気な瞳。


「あら、あなた。起きたの? もうすぐ、ご飯できるわよ。…今日は、いいお天気ね」


ヴォルコフの気配に気づき、彼女はゆっくりと振り返る。

その悪戯っぽく、そして愛情に満ちた、いつもの笑顔。


「ねえ、セルゲイ。もしこの子が女の子だったら、絶対、超伝導体の話を聞かせてあげなくちゃ。きっと物理好きになるわ」


そう言って笑う彼女がそこにいること。

トーストが焼ける香ばしい匂い。

窓の外の白樺の葉が、風に揺れて光を散らしている。


その全てが、永遠に続くと信じて疑わなかった。

あの頃の自分は、まだ三十路手前の、自らの才覚に自惚れた若造でしかなかったのだ。

完璧で、残酷なほどに穏やかな朝。


完璧な幸福は、常に最も鋭い刃となって、記憶を切り裂く。

…そこで、夢は途切れた。


ヴォルコフは、頬に感じるグラスの冷たさで、意識を取り戻した。

2014年の、夕暮れの薄暗い書斎で、一人、机に突っ伏していたらしい。


窓の外では、雪が静かに降り続いている。

最後の夏の日差しは、もうどこにもない。


彼は、写真の中のユキに、かすれた声で問いかけた。


「ユキ…俺は、間違っているのか」


答えは、ない。

ただ、グラスの中の氷の粒が、白く鈍い光を反射して揺れていた。

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