燃やされた海図
現実での米宇宙軍は2019年に創設されています。
2014年初頭 ワシントンD.C. ホワイトハウス・ウエストウイング地下。
そこには窓がなかった。
国家の神経中枢であるシチュエーション・ルームは、外界の天候も、昼夜の別さえも拒絶する。
壁一面に広がるスクリーンだけが、合成樹脂のテーブルに座る男たちの顔を、青白い光で無感情に照らし出していた。
部屋の空気は、フィルターを通した空調の低い唸りと、淹れられてから時間の経ったコーヒーの澱んだ香りに支配されている。
ホワイトボードの中央に貼られた一枚の紙。
そこに記されたロシアの次世代往還船『ヴォストーク級』の最新の推測データが、この部屋の重苦しい沈黙の原因だった。
「…つまり、奴らは月を経由しない」
宇宙軍作戦本部の少将が、低い、絞り出すような声で結論を口にした。
その言葉は、事実報告というよりも、敗北宣言の第一声のように響いた。
「静止軌道のOD-2で一度燃料を満タンにすれば、月面での補給なしに、火星の周回軌道まで到達し、そして地球へ帰還できる。燃料の補給源は、先日捕獲したあの小天体と、軌道上の精製プラント…我々は、完全に読み違えていた」
NASA長官チャールズ・ボレンスは、組んだ腕が緊張で硬くなるのを感じていた。
元宇宙飛行士である彼のプライドが、この無慈悲な数字の羅列に軋みを上げている。
「我々のゲートウェイ計画は、彼らを“港”に寄港させることで、政治的影響力と国際標準の主導権を確保するのが狙いだった。だが、彼らはその港を、眼下の無人島のように無視して飛び越えていく」
「いや、ボレンス長官」
声の主は、会議の末席に座るCIAの若き分析官だった。
戦略評価室から専門家として招聘された彼は、その年齢に不釣り合いなほど冷徹な瞳でスクリーンを見つめている。
「彼らは、港を無視しただけではない。彼らがやろうとしていることは、もっと別のことです。火星直行便? あれはカモフラージュだ」
分析官は手元の端末を操作し、メインスクリーンの一つの表示を切り替えた。
米軍が誇る軌道防衛網の概念図が、ヴォストーク級の推定航続距離を示す赤い楕円によって、無残に貫かれている。
「彼らが捕獲した小天体、あれは水氷と揮発性ガスだけではなかった。鉄とニッケルを豊富に含む、ただの岩塊でもある。そして、それを意のままに軌道変更させる技術は、そのまま、世界で最も効果的な戦略兵器に転用できる」
国防長官が眉をひそめた。
「衛星破壊(ASAT)は想定済みだ。だが君は…まさか」
「ええ。あれは“落とせる”」
分析官は、まるで天気予報でも告げるかのように、淡々と言い切った。
「直径50メートル程度の岩塊でも、正確に誘導して大気圏上層で戦略的に爆破させれば、その衝撃波だけで都市機能を一瞬で沈黙させられる。もし、衝突させれば…」
彼は言葉を切った。
その先の未来を語る必要はなかった。
部屋にいる全員が、核抑止という冷戦時代から世界をかろうじて支えてきた天秤が、今、根底から崩れ去る音を聞いていた。
今まで「宇宙進出競争」という、どこか楽観的な響きさえあった言葉が、一瞬で「第三次世界大戦前夜」のそれに変わった。
大統領は、深く、深く椅子に沈み込んだ。
その指先が、かすかに震えている。
「宇宙での戦略的優位を失えば、地上における核の抑止も、その意味を失う…」
重い沈黙を破ったのは、財務長官の現実的な問いだった。
「…対策のための、追加予算の規模は?」
「最低でも、年間五百億ドル規模の純増だ」
国防長官が、苦々しく答えた。
「宇宙軍の本格的な戦力化、我々自身の有人深宇宙船の開発、そして軌道上での資源精製能力の確立──三つの計画を、今すぐ同時に、全力で走らせる必要がある」
「そんな金、一体どこから捻り出すというんだ!」
「中東から、足を抜く」
国防長官の声は、氷のように冷たかった。
「アフガニスタンとイラクの駐留経費を段階的に削減し、地域の安全保障は同盟国に委ねる。砂漠の油田を一つ守ることより、今や軌道上の高地を確保することの方が、国家の生存にとって遥かに重要だ」
「政治的な反発は避けられません。テロリストに勝利宣言をさせる気か、と国内から突き上げを食らうぞ」
補佐官が口を挟む。
「言い訳はいくらでもある。“火星に先んじる”でも、“未来への投資”でも、何とでも言え。だが、本当の理由は、これだ」
国防長官はスクリーンを指差した。
そこでは、ロシアのドローンが氷と鉄の塊を抱えたまま、地球からは窺い知ることのできない暗黒の宇宙へと消えていく。
それはただの岩塊ではなかった。
軌道の向こう側から、アメリカの心臓部に突きつけられた、見えない矛だった。
ボレンスが、静かに立ち上がった。
「ヴォルコフは、我々が必死に描いていた地図そのものを、暖炉に投げ捨てた。ならば、我々も地図の外で戦うしかない」
大統領は、状況室の凍てついた静寂の中で、ゆっくりと、しかしはっきりと頷いた。
「…許可する。全計画を発動させろ」
その声は、新たな時代の、静かな宣戦布告だった。
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