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ゼロコストの投資

ペトロフ大統領の呟きが、クレムリンの執務室に重く響いた。

世界が変わるまでのカウントダウン。それはロシアにとって、最大のライバルが致命的な打撃を受ける瞬間を、特等席で観戦できる時間でもあった。


シェスタコフ将軍も、同席していたノヴィコフ国防大臣も、その戦略的意味を理解し、固唾を飲んで沈黙している。

その沈黙を破ったのは、ヴォルコフだった。


「大統領閣下」


彼の静かな声に、三人の視線が集まる。


「一つ、ご提案申し上げます。この悲劇を、ただ『観測』するだけに留めない、という選択肢です」


ノヴィコフ国防大臣が、訝しげな顔で口を挟む。


「ヴォルコフ長官、何を言う。介入でもしろというのか。正気の沙汰ではない」


「いいえ、介入ではありません」


ヴォルコフは、大統領の目を真っ直ぐに見据えた。


「これは、投資です。コストはゼロ。しかし、将来的に計り知れない利益を生む可能性のある、戦略的投資です」


ペトロフが、わずかに身を乗り出した。


「……続けろ」


「我々は、アメリカに警告を発します。ただし、それは救うための警告ではありません。『我々は知っていた』という事実を、後日、彼らの記録の片隅に残すための、極めて曖昧な警告です」


ヴォルコフは言葉を続ける。

彼の声には、熱も同情もない。ただ、冷徹な計算だけがあった。


「例えば、『ワシントンの我が大使館から、米国の国務省へ。非公式な情報として――"過激派グループが、金融センターに対し航空機を利用した大規模なテロを計画している兆候がある"と』。これだけです。具体的日時も、場所も、組織名もありません。彼らはこれを、無数にある脅威情報の一つとして処理し、間違いなく無視するでしょう」


シェスタコフ将軍が、その意図に気づき、目を見開いた。


「……だが、事件が起きた後、彼らが自らの記録を検証した時、その一行は、預言の言葉となって浮かび上がる……」


「その通りです、将軍」

ヴォルコフは頷いた。


「アメリカは知ることになる。ロシアは、何かを掴んでいた、と。なぜ教えなかったのかと我々を非難するでしょう。しかし、我々はこう答える。『我々は警告した。だが、君たちがそれを真剣に受け取らなかっただけだ』と。我々には、一切の非がなくなる」


ペトロフは、椅子に深く身を沈め、指を組んだ。

彼の頭脳が、この提案の持つ、恐るべき価値を高速で計算しているのが分かった。


「……そして、その先には何がある?」


「『恩』と『貸し』です、大統領」


ヴォルコフは断言した。


「将来、我々が本当に世界に協力を呼びかけなければならない時……つまり、あの『訪問者』との戦いが始まった時、アメリカは我々の言葉を無視できなくなる。なぜなら彼らは一度、我々の『預言』を無視して国を焼かれた過去を持つことになるからです。これは、彼らの首に、我々が主導権を握るための、見えない首輪をかける行為です」


「これは感傷ではありません。慈悲でもない。これは、来るべき戦争のための、最も効率的な布石です」


長い沈黙が、部屋を支配した。

やがて、ペトロフは静かに立ち上がり、ヴォルコフの肩に手を置いた。


「……君は時々、私よりも冷酷な男になるな、セルゲイ」


その表情に、笑みはなかった。


「だが、その提案は、論理的だ」


ペトロフは、安全保障会議書記モロゾフに向き直った。


「モロゾフ。ジュネーブの次席公使から、CIAの欧州支局長へ、非公式チャネルで伝えろ。内容は、今ヴォルコフが言った通りだ。一言一句、変えるな。記録に残すな。ただの『噂話』として、相手の耳に入れろ」


「……よろしいのですか?」


「ああ」

ペトロフは頷いた。

「コストはゼロだ。そして、我々は何も失わない」


モロゾフが退室していく。

ヴォルコフは、窓の外に広がる、まだ何も変わらないモスクワの空を見つめていた。


あと、一時間半。

歴史上、最も高くつく『貸し』が、生まれようとしていた。

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