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地図の外側で

2014年 春 モスクワ郊外。


雪解け水が、シェスタコフ将軍のダーチャの庭の白樺の根元を濡らしていた。

暖炉の火がパチパチと音を立てる室内で、引退を間近に控えた老将軍は、ヴォルコフが持参した携帯端末の液晶映像を黙って見つめていた。


そこには、静止軌道上のOD-2から発進したドローンが巨大な網を展開し、直径二十数メートルの暗灰色の小天体を捕らえる様子が映し出されている。

網の繊維は光を反射し、まるで老練な漁師が大物を手繰り寄せる瞬間のようだ。


「見事なものだな、セルゲイ」


シェスタコフは、手にしていたグラスのウォッカを揺らしながら言った。


「だが、腑に落ちんこともある。先日のサイバー攻撃未遂の一件以来、アメリカは我々への締め付けをさらに強化している。この“氷の塊”を捕まえたとして、それを燃料に変えるプラントは? それを積む船は? 我々が船を完成させる前に、アメリカは我々が入るべき全ての“港”を、法と規格で封鎖してしまうのではないか?」


その問いは、軍人らしい真っ直ぐで本質的なものだった。

ヴォルコフは静かに頷いた。


「おっしゃる通りです、将軍。もし我々が、彼らと同じ地図の上で戦っているならば」


彼は端末を操作し、映像を止めた。

捕獲された小天体の表面に、太陽光に炙られた揮発性ガスが、白い霜のように微かに噴き出す瞬間が拡大表示される。


ヒドラジン生成用の窒素、水の電気分解で得られる酸素、そして液化水素――いずれも推進剤の命脈だ。


「この小天体は、未来メールに残されていた中国の探査計画書の断片から見つけました。史実では見失われるはずだった、ただの岩塊です。ですが、我々にとっては宝の山でした」


「そして、アメリカがこれを見つけられなかった理由こそが、我々の勝ち筋です」


ヴォルコフは立ち上がり、暖炉の前に立った。

その炎が、彼の顔に揺れる影を落とす。


「第一に、彼らは賢すぎた。そして、経済合理性という名の信仰に縛られていました。“地球から火星往復分の推進剤を全て持ち上げるなど非現実的だ。必ず月面での補給を挟む”。彼らにとって、それが唯一の解だったのです。我々が、その“非現実”を本気でやろうとしているとは、夢にも思わなかった」


シェスタコフが怪訝な顔でヴォルコフを見た。


「だが、セルゲイ。非現実は非現実だろう。我々に、そんな力があるのか」


「だから、我々は嘘をつきました」


ヴォルコフの声は静かだが、確信に満ちていた。


「第二の点です。我々は資源精製能力を意図的に過小に見せかけました。OD-2はあくまで“試験段階”だと公表し、本当の燃料生成プラントの打ち上げは、通信衛星や物資補給便に偽装して静かに行ったのです。数字の裏側に、本当の工場を隠したのです」


彼は続けた。


「そして第三に、彼らは自分たちの限界を、我々の限界だと錯覚してくれた。NASA内部では、生命維持の完全循環率99.8%の壁を、いまだ突破できていません。だから、月を経由しない直行ルートなど自殺行為だ――そう決めつけ、米・欧・日の合同事業である“ゲートウェイ”という港に、自らの戦略を縛り付けた。彼らが作る港に寄らない未来など、想像すらできなかったのです」


シェスタコフは、ゆっくりとウォッカを一口飲んだ。

彼の脳裏で、ヴォルコフが語った三つの点が、一つの恐るべき戦略として結びついていく。


「…つまり君は」


将軍の声が、わずかにかすれた。


「彼らが必死に港を封鎖している間に、我々は飛行機で、その港の上を飛び越える準備をしていた、と。そういうことか」


「その通りです」


ヴォルコフは、液晶の映像を再び動かした。

捕獲された小天体が、ゆっくりとOD-2へと牽引されていく。


「あれが、我々の切符です。月に寄らずとも、この地球静止軌道で燃料を満タンにして、火星へ、そして帰還できる」


その瞬間、ヴォルコフの脳裏に、未来メールの一文が浮かんだ。


《あなたたちは地図の外を航行できる。》


それはただの励ましだったのかもしれない。

だが、それがヴォルコフに道を切りひらかせた。


「将軍」


ヴォルコフは、窓の外に広がる春の曇天を見つめた。


「地図の外側には、危険も、孤立もあります。ですが同時に、誰も足を踏み入れたことのない、新しい航路もあるのです」


シェスタコフは、グラスを静かにテーブルに置いた。


「…セルゲイ。私は半生を、地図の上で敵の駒を動かすことに費やしてきた。だが君は、その地図そのものが、ただの一つの可能性でしかなかったと、そう言うのだな」


老将軍は、深く長い息を吐いた。

その目には、もはや疑念の色はなく、自らが育てた後継者の、その恐るべき才能に対する畏敬の念が浮かんでいた。


「…ならば行け。そして、新しい地図を描いてみせろ」


ヴォルコフは静かに一礼した。

ダーチャを出ると、冷たい春の風が彼の頬を撫でた。


その風は、まだ見ぬ地図の外の宇宙から吹いてくるようだった。



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