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幽霊の戦争

数日後、ホワイトハウスNSCのシチュエーション・ルーム。


地下深くにあるその会議室には窓がなく、壁に埋め込まれたスクリーンの青い光だけが、男たちの苦々しい表情を照らしていた。


NASA長官チャールズ・ボレンスは腕を組み、重い沈黙を保っている。

その向かいで、CIAのサイバー作戦部門を率いる男が報告を締めくくった。


「…結論として、作戦は失敗です。ロシアの若造にコードを書き換えられ、アームは正常化しました」


男は忌々しげに舌打ちした。


「ですが収穫はあった。奴らのOS『RSTON1』は、我々が想定した通りのフランケンシュタインでした。継ぎ接ぎだらけのコード、その脆弱性は確実にこの手で掴んだ。次はもっと深く潜れる。心臓を直接止めることも可能です。再度の攻撃許可を申請します」


ボレンスは顔をしかめた。


「我々は宇宙飛行士だ。スパイじゃない。物理的な破壊工作につながりかねない行為は一線を越える」


「長官!」


CIAの男が声を荒らげた。


「彼らが宇宙に作っているのは友好の証などではない! 軌道上の要塞です! 我々がここで一線を引いている間に、彼らは我々の頭上にダモクレスの剣を吊るす気ですよ!」


ボレンスの表情は固いままだったが、反対はしなかった。

ロシアの独走を止めるためには、汚い仕事も必要悪だ…彼がそう判断し、頷こうとしたその時だった。


赤いランプが点灯し、国家安全保障担当補佐官が部屋に入ってきた。

その手には緊急性の高い外交公電があった。


「横やりが入った」


補佐官は言った。


「ホワイトハウスに欧州から正式な懸念表明だ」


――同日、ワシントンD.C. ホワイトハウス、大統領執務室。


「ドイツとフランス、そしてイタリアだと?」


米大統領は受話器を叩きつけるように置き、怒りを露わにした。


「我々が自由世界の盾となり、中東で血を流している間に、彼らはロシアの安いガスで暖を取り、我々の足を引っ張るというのか!」


安全保障担当補佐官が淡々と報告を続ける。


「彼らはESAを通じて、『宇宙の非軍事利用』を謳う宇宙条約への違反の可能性を指摘してきました。ロシア側が『ナジェージダ』建造中に見せた異常な混乱から、我々の“気象衛星”が少しばかり天候を荒らしたことを見抜いたようです」


「しらを切れ! 証拠などないはずだ!」


「もちろんです、大統領。しかし…」


補佐官は言葉を選んだ。


「NATOの同盟国からの公式な懸念表明です。これを完全に無視すれば、我々は“宇宙の平和を乱す無法者”というロシアのプロパガンダに格好の材料を与えることになります」


大統領は執務室を苛立たしげに歩き回った後、決断した。


「…分かった。CIAに伝えろ、もっと深く潜れと。幽霊のようにやれ。存在を誰にも気づかれるな。欧州の連中には、ロシアとの“建設的な対話”を続けるとでも言っておけ」


あからさまな妨害はできなくなった。

アメリカは、より深く見えない妨害工作へと移行せざるを得なかった。


――さらに数日後、NASA本部・先進構想分析室。


その部屋の空気は、まるで葬儀のように静まり返っていた。

ボレンスと数人のトップアナリストたちが、巨大なホワイトボードを前に立ち尽くしている。

そこには『ヴォストーク級』の想像図と、そこから引き出された無数の数式が書き殴られていた。


「…おかしい」


一人の若いアナリストが震える声で言った。


「何度計算しても合わないんです。この船体の推定質量と、観測された推進剤タンクの容量…そして彼らが公表したエンジンの比推力。月を往復するには過剰すぎます。これではまるで…」


ボレンスはアナリストからマーカーをひったくると、自ら数式を組み立て始めた。


デルタV(速度変化量)、ペイロード比、質量比…宇宙開発の根幹をなす物理法則が、ホワイトボードの上で組み上がっていく。

そして、彼は恐ろしい現実に気づいた。


「…待て」


ボレンスの声がかすれた。


「奴らは…月で補給するつもりがないのか…?」


その場にいた全員が息を呑んだ。


NASAの対ロシア戦略は、その根幹を月周回軌道に建設するステーション『ゲートウェイ』――つまり“港”と、月面で製造する推進剤――つまり“ガソリンスタンド”に置いていた。


ロシアの船もそこへ立ち寄らざるを得ないと信じていたのだ。

だが、計算結果は無慈悲な事実を突きつけていた。


「この船は…」


別のアナリストが絶望的な声で続けた。


「地球軌道で一度燃料を満タンにすれば、月での補給なしで火星の周回軌道まで到達し、そして地球へ帰還できるほどの航続性能を持っています…」


「我々のゲートウェイは…」


ボレンスはホワイトボードに拳を叩きつけた。


「彼らにとって、ただの道端のガソリンスタンドでしかない。しかも、彼らはそこに立ち寄る必要すらない…!」


アメリカが築こうとしていた「航路と港と規則」による包囲網。

それは壮大な見当違いだったのかもしれない。


我々が港の支配権を巡って海戦の準備をしていた間に、相手は飛行機で頭上を飛び越え、新大陸へ向かおうとしていたのだ。


ボレンスは、ホワイトボードに書かれた自分たちの戦略の三原則――『FUEL. PORT. RULES.』――を呆然と見つめていた。


その文字が、嘲笑うかのように滲んで見えた。



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