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デジタルの決闘

2014年。


OD-2のシップヤードは、宇宙の鍛冶場と化していた。


プロトタイプ往還船『ナジェージダ(希望)』の建造着手が宣言されると、その組み立ては想定外のスムーズさで進捗した。


アンナ・ベレゾフスカヤが発見した新しい合金精錬法は完璧に機能し、銀色に輝く船体の骨格が、日に日にその姿を現していく。


世界は、ロシアが宇宙で演じるこの壮大な建造に、嫉妬と興味の入り混じった視線を注いでいた。

だが、その足元をすくおうとする者がいた。


制御の壁。


OD-2の建造と運用は、人間と、多数の自律型ロボットアームやドローンとの協調作業に依存している。

これらのロボットを制御するロシア独自のOS『RSTON1』は、米国の妨害を避けるために様々な国の部品とソフトウェアを強引に繋ぎ合わせた、「フランケンシュタイン」のようなシステムだった。


その複雑なコードのどこかに、潜伏期間を持つバグや、意図的に仕込まれたバックドアが存在する可能性は、常に指摘されていた。


そして、運命の日が来た。


『ナジェージダ』の心臓部である巨大な核熱エンジンモジュールを、大型の建設ロボットアームが吊り上げ、船体に取り付けようとする――プロジェクトのクライマックス。


世界中が、その歴史的瞬間を固唾をのんで見守っていた。



モスクワの管制センター。

巨大スクリーンに映るその光景を前に、コマロフ技師が満足げに頷く。


「いいぞ…あと数センチだ。ゆっくり、慎重に…」


その時だった。

ロボットアームが、突然、不可解な挙動を始めた。

それは暴走ではなかった。むしろ、過剰なまでに正確な「反乱」だった。


「なんだ!?」


管制官の一人が叫ぶ。


「アームの接近速度が、規定値の105%に! 警告を無視して加速しています!」


「ボルトテンショナーのトルク設定が…110%!? 馬鹿な! そんな力で締め付けたら、船体フレームにマイクロクラックが入るぞ!」


命令を忠実に、しかし致命的に間違って実行し始めたのだ。


ロボットアーム達は、設計図では「アーム加速度1000ミリ秒、トルク制動100パーセント」と指示されている箇所を「アーム加速度1050ミリ秒でトルク制動110パーセント」で実行しようと動き始める。


それは確かに、過大なオーバーシュートではなかった。だが、正常な制御系を逸脱し始めたのは明らかだった。さりげない、しかし底知れない悪意が制御系に打ち込まれたのだ。


「シャットダウンしろ! 全システムを緊急停止だ!」


コマロフが怒鳴る。

だが、無情な電子音が響き渡った。


「ダメです! ロボットが外部からの緊急停止命令を『異常なコマンド』として無視しています!」


このままでは、あと数分でエンジンと船体が破壊され、数年に及ぶ計画が、数千億ルーブルの損失と共に宇宙の塵と化す。


その混乱の最中、司令席に座るヴォルコフだけが、冷静に部屋の隅にいる一人の青年に視線を向けた。

彼は、この日のためにヴォルコフが育てていた、名もなき天才だった。


「サーシャ」


ヴォルコフの静かな声に、ヘッドフォンをかぶった痩身の青年――アレクサンドル・サーシャ・イワノフが顔を上げる。


その目は、現実の世界ではなく、その向こう側にある無数のコードの奔流を見ていた。


「やれるか」


「…やってみます」


サーシャは、ヴォルコフの言葉が終わる前に、自分のコンソールのキーボードを叩き始めた。

彼の指が、常人には理解不能な速度で踊る。

モスクワの管制センターから、リアルタイムで『RSTON1』の内部データをチェックし始める。


彼の戦場は、数百万行のコードが支配するデジタルの宇宙。

敵は、米国の宇宙軍が、近くを通り過ぎる「気象衛星」を装って発した、極めて微弱な妨害電波だった。

それは、システムの脆弱性を突き、命令の数値をわずかに書き換える、悪意に満ちた囁きだった。


サーシャの脳裏に、チェス盤が浮かび上がる。

敵のキングは、「トルク110%」という偽の命令。


サーシャは、即座に自らの指を動かす。

彼は、ロボットの制御OSに、その場でコードを書き加え、こう囁き返した。


『モーターの安全限界は90%に設定されている。110%の命令は物理的に実行不可能。直ちにトルクを再計算せよ』


それは、「正しい嘘」だった。


ロボットのAIは、二つの矛盾した情報――「110%で締めろ」という外部からの命令と、「90%が限界だ」という内部からの偽フィードバック――の間で、論理的な最適解を導き出そうとする。


その結果、AIが選択したのは、安全マージンを考慮した「98%」という、許容範囲内のトルクだった。


「トルク、低下します!」


管制官が叫ぶ。

だが、敵もさるものだった。

次の瞬間、妨害電波はロボットアームの姿勢制御システムを標的に切り替えた。


アームが、エンジンを船体に押し付ける角度を、0.1度だけずらそうと微細な振動を始める。

サーシャは、キーボードを打つ指を止めない。

敵のクイーンの動きを読み、自らのナイトを跳ねさせた。


姿勢制御システムの根幹にあるジャイロセンサーのフィードバックループに、新しいコードを割り込ませる。


『現在の振動は、太陽風による外部要因と推定される。補正ルーチンを起動し、アームの現在位置を"絶対座標"として固定せよ』


アームの微細な振動が、ぴたりと止まった。


それは、数百万行のコードが支配するデジタルの戦場で繰り広げられる、わずか数分間の、しかし人類の未来を賭けた決闘だった。


「…全システム、正常値に復帰!」


「エンジンモジュール、ドッキングシーケンス再開します!」


「…3、2、1…接続完了! ロック、確認!」


管制室が、爆発的な歓声と拍手に包まれた。

コマロフは、その場に崩れ落ちるように椅子に座り込み、パーヴェルは安堵の息を大きく吐き出す。

ヴォルコフは、その喧騒から離れ、まだコンソールと向き合っているサーシャの肩に、そっと手を置いた。


「…よくやった」


サーシャは、ゆっくりとヘッドフォンを外し、振り返った。

その額には、びっしりと汗が浮かんでいる。


「いえ…」


彼は、か細い声で言った。


「敵は、まだそこにいます。今回は追い払えただけです。彼らは、このシステムの弱点を、完全に学習したはずです」


ヴォルコフは、無言で頷いた。


そして、巨大なスクリーンに映る、美しくドッキングされた『ナジェージダ』の姿を、静かに見つめていた。


希望は、かろうじて繋ぎ止められた。

だが、このデジタルの戦争には、まだ終わりが見えなかった。

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