地図なき航海
2013年の冬、ロスコスモス執務室。
執務室の空気は暖房で乾いていたが、ヴォルコフの背筋には冷たいものが走っていた。
机の上には二つの未来が並んでいる。
一つは、ロスコスモスの最高の頭脳たちが描き出した往還船『ヴォストーク級』の設計資料。
銀色の船体が壮麗な光を放つCGと、何千ページにも及ぶ技術仕様書。
そしてもう一つは、黄ばんだ未来メールのファイルだ。
ヴォルコフは二つを交互に見比べ、眉間の皺を深くした。
月地球、あるいは月火星往還船には、未来メールの詳細な技術サポートがない。
この点が気にかかっていた。
推奨される開発チャートは明確であり、かなり練り込まれていることがわかる。
OD-2を建造し、そこで大型船を組み立てるというロードマップも示唆されていた。
だが、肝心の船そのものの技術的な詳細が書かれていないのには違和感を覚えた。
わざとなのは間違いない。だが、なぜだ?
まるで「知らない、作ったことがない」かのようだ。
「…まさか」
頭を振る。
未来メールの世界では、断片的だが宇宙開発が進み、月面基地があったこともわかる。
火星についても限定的だが駐留していたことも…。
それなのに、その間を結ぶ最も重要な交通手段のデータがない?
(彼らの歴史では…ヴォストーク級は間に合わなかったのではないか?)
その不吉な可能性が、心の隅で黒い染みのように広がる。
『訪問者』の侵攻までに、この船は完成しなかった。
だから設計図が存在しないのでは…。
自分たちが今進んでいる道は、彼らが失敗した道と同じ轍を踏んでいるだけなのではないか。
ヴォルコフは思考を振り払うように立ち上がり、ヴォストーク級の全体構想図をスクリーンいっぱいに表示させた。
人類史上最大の宇宙船といっていい。
その全長は350メートルに達する。
この巨大な船を、高度35786キロメートルの静止軌道――気象衛星が周回するのと同じ高さにあるOD-2のシップヤードで組み上げるのだ。
地球圏の重力井戸を離れるための燃料は少なくてすむものの、それでも莫大な燃料と資材が必要になる。
エンジンは核熱推進と化学燃料エンジンのハイブリッド方式。
圧倒的な推力と燃費を両立させるための苦肉の策だ。
固定乗員はわずか40名で、この巨大な“宇宙鯨”を制御できるように設計されている。
そのための自動化レベルは、現在の技術水準を遥かに超えている。
少なくともプロトタイプでは、予備クルーを増員し処理能力をあげざるを得ない。
「長官」
内線からパーヴェルの声がした。
「OD-1から定時連絡です。生命維持システムの長期試験について」
「繋いでくれ」
スクリーンに、OD-1の研究プラント内部が映し出された。
宇宙飛行士のアンドレイ・ソロキンが疲れた顔でカメラに向かって敬礼する。
「長官、ご報告です。こちらでは水と酸素の完全循環システムの連続稼働試験が5000時間を突破しました。しかし…」
ソロキンは言葉を濁した。
「リサイクル率99.8%の壁が、どうしても超えられません。残りの0.2%がシステム内に微量な汚染物質として蓄積し、フィルターの寿命を予測より大幅に縮めています。このままでは火星への往復航海に耐えられないかと」
「分かった。データは受け取った。引き続き頼む」
ヴォルコフは短く通信を終えた。
生命維持――それはこの地図なき航海における最大の暗礁だった。
食料の完全リサイクル、長期的な宇宙放射線が人体に与える未知の影響、そして何より閉鎖空間における人間の心理。
それらの検証は今まさにISSとOD-1のロシアハブで懸命に行われているが、決定的な解決策は見つかっていない。
未来メールは、なぜこの最も困難な部分について沈黙しているのか。
ヴォルコフは再びファイルを開いた。
そこにはただ――
『生命維持に関しては既存技術の延長線上で解決可能』
とだけ記されていた。
あまりに楽観的すぎる記述。
「パーヴェル、コマロフ技師を呼んでくれ」
数分後、設計主任のコマロフが執務室に入ってきた。
「長官、お呼びでしょうか」
「ヴォストーク級のプロトタイプ開発を前倒しする」
ヴォルコフは有無を言わせぬ口調で言った。
「ですが長官、生命維持系の問題が…」
「問題があるから作るんだ」
ヴォルコフはコマロフの目を真っ直ぐに見据えた。
「我々には完璧な地図はない。ならば自分たちで描くしかない。嵐が来ると分かっている海図のない海へ、それでも我々は船を出すんだ」
「プロトタイプの名は『ナジェージダ』…希望と名付ける。この希望を飛ばし、我々自身の力で答えを見つけ出す」
コマロフは、ヴォルコフの瞳の奥にある、狂気と紙一重の決意を読み取り、ごくりと喉を鳴らした。
「…承知いたしました。やってみせます」
執務室に一人残されたヴォルコフは、窓の外の暗い空を見上げた。
彼らが残した地図がないのなら、それは同時に、彼らがたどり着けなかった未来へ行くチャンスがあるということでもある。
たとえその先に崖が待っていようとも、進むしかなかった。
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