黄ばんだ紙の上の未来
2013年 冬。
モスクワの夜は、音もなく凍てついていた。
ロスコスモス本部の最上階にある執務室の窓の外では、雪が街の光を鈍く反射しながら静かに降り積もっている。
OD-2の合金の病を克服し、銀色の脊椎がその威容を完成させてから数ヶ月。
勝利の熱狂は遠い昔のことのように過ぎ去り、セルゲイ・ヴォルコフの周りには再び深い静寂が戻っていた。
彼は鍵のかかった引き出しから、一冊の分厚いファイルを取り出した。
未来から届いたメールをプリントアウトし、製本したこの世に二つとない極秘文書だ。
何度も穴が開くほど見てきた。
それこそそらんじるほどに。
未来メールは、主に歴史、技術、推奨行動、人物、そして最後は私信で構成されている。
そっと指で行をなぞる。2000年当時の技術水準では夢物語だった技術は実現しつつある。
いくつかの行は、転送時の衝撃で一部が文字化けしていた。
最大の注意が払われたと思われるファルコン9のデータですら、圧縮の失敗からかなりが文字化け、データ化けを引き起こしている。
だが送り主はわかる。
送り主はエレナ――エレナ・ソロキナ提督。
地球統合防衛軍、第3艦隊司令官、月面基地セレーネ司令部。
そして、その私信。
最初はリアリティがなかった。
荒唐無稽な物語の登場人物の名前のようにしか感じられなかった。
だが十三年という歳月が過ぎた今、それは全く違う意味を持ち始めていた。
マリアが少女から大人への階段を上り始め、ハイティーンに近づくにつれて、その一文はあまりにもリアルな未来の可能性として彼の胸に突き刺さるようになってきていた。
ヴォルコフは、黄ばみつつある紙に印刷したその一文を指でなぞる。
『セルゲイ・ヴォルコフ長官へ
あなたの孫、アレクセイ・ヴォルコフ少佐が我が艦隊の戦術将校として活躍している。
彼の勇気があなたゆずりであることをここに記す。
E.S.』
「…アレクセイ」
ヴォルコフは、誰に言うでもなく、その名を呟いた。
まだ見ぬ孫の名前。
彼の頭の中に、フィギュアスケートの練習に向かうマリアの冷たい横顔が蘇る。
あの娘がいつか誰かと恋に落ち、家庭を持つ。
その未来を、自分が今作っているこの道が守れるというのか。
『彼の勇気があなたゆずりである』
その言葉が今夜は、賞賛ではなく皮肉の刃となって心を抉る。
自分に勇気があっただろうか。
国家のため、未来のためと大義を掲げながら、たった一人の娘の心から逃げ続けているこの自分が。
マリアから見れば、父親は勇者などではない。
仕事という名の城に逃げ込んだ臆病者でしかないだろう。
(この私信を送ってきたエレナ・ソロキナ提督…彼女は俺の何を知っているというのだ)
ふと「ソロキナ」という姓に、彼の思考が止まる。
聞き覚えがある…。
そうだ、あの宇宙飛行士、アンドレイ・ソロキン。
『オルビトゥム』の実験に失敗し、『裸の炉』の危機では命を賭して船外活動を行ったあの実直な男。
まさか…。
ヴォルコフは思考を振り払った。
仮説は無数にある。
だが確証は何もない。
彼は机の上の写真に目をやった。
亡き妻ユキの写真、まだ赤ん坊だったマリアの写真。
ユキが生きていたら、何と言っただろうか。
『あなた馬鹿ね。国家なんて大きなものを背負う前に、目の前の小さな手を握ってあげなさいよ』
そんなふうに笑いながら叱ってくれたに違いない。
「…すまない、ユキ」
ヴォルコフは写真立てにそっと指で触れた。
「俺はまだ迷っている。だが…この道を進むしかない」
彼は黄ばんだ私信のページを閉じ、ファイルの表紙にある『2060』という数字を睨みつけた。
アレクセイ・ヴォルコフ。
その孫が生まれる未来。
その孫が戦わずに済む未来。
それを作るためなら、どんな罪も背負う。
どんな孤独にも耐える。
ヴォルコフは立ち上がると、分厚い計画書の束を手に取った。
その表紙にはこう記されていた。
『次世代型往還船 "ヴォストーク級" 基本設計案』
感傷に浸っている時間はない。
未来は待ってくれないのだ。
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