ある翼の追憶
この話の中にこっそりとSF歴史改変がねじ込まれてます。
モスクワ郊外の地下深くにあるロスコスモスの材料科学研究所。そこはアンナ・ベレゾフスカヤ一人のための聖域であり、戦場だった。
何週間も、彼女は回収された合金のサンプルと小惑星の組成データだけを相手に、孤独な探求を続けた。質量分析器にかけ、電子顕微グラインダーで原子レベルの構造を覗き、そしてスーパーコンピュータで何万通りもの結晶化プロセスをシミュレーションする。
世界は待ってはくれなかった。NASAとJAXAは共同で開発した国際ドッキング規格『CII-1』を搭載した無人探査機の打ち上げに成功し、「月への安全な航路作りは我々が主導する」と高らかに宣言していた。クレムリンの焦りが、アンナの背中を焼くように感じられた。
ある日、研究所の重い扉が開き、ドミトリー・コマロフが姿を現した。その手には、黒パンとソーセージを無造作に紙で包んだ、彼らしい差し入れがあった。
「アンナ、少しは休め。人間が三週間もぶっ通しで働けるものか」
青白い顔でモニターの数字の羅列を睨みつけていたアンナは、スクリーンから目を離さずに答えた。
「休んでいる時間はないの、ドミトリー。私がここで足踏みしている間に、アメリカは着々と…」
「奴らの話はどうでもいい」コマロフはアンナの言葉を遮り、無骨な椅子に腰を下ろした。
「昔話をしてやろう。ブラン(再使用型宇宙往還機)の耐熱タイルの話だ。理論上は完璧なはずだった。だが、最初の再突入試験で、タイルの何枚かが、予測不能な微小な振動で剥がれ落ちた」
苦い、だがかすかな郷愁を感じる語り口でコマロフは話し出す。
「当時、設計班の主任技師だった俺は死に物狂いで原因を探したよ、連邦再編で計画中止が決まりかけてたからな。一度だけでも俺は宇宙に、自分が設計したブランで人を送りたかったんだ」
もう届かない懐かしい何かを思い出すかのような口調だった。
「原因は、設計図のどこにも書かれていない、何のこともないことだ。ただのタイル接着剤の想定外の熱劣化だった。国営企業の中抜きで、組成が変化してたんだ。そして、君の知るようにかろうじて、ブランは一度だけ宇宙に人を運んだ。それはロシアの誇りになった。」
彼は黒パンを一口かじり、続けた。
「宇宙はな、アンナ。俺たち技術者の傲慢さを、いつも静かに笑っているんだ。君の言う通り、俺の経験は古いのかもしれん。だがな、一つだけ言える。答えは必ず、最も単純で、最も見落としている場所にある」
コマロフはそれだけ言うと、息を吐き、恥ずかしそうに手を振り無言で部屋を出ていった。彼の不器用な励ましが、シミュレーションの海に溺れかけていたアンナの思考に、一つの光を灯した。
(最も、見落としている場所…)
彼女は、これまでエラーとして弾いていた、ごく微量の不純物のデータに、もう一度向き合った。そして、ある夜明け前。モニターに映る一つのスペクトルグラフを指でなぞり、かすれた声で呟いた。
「…見つけた」
彼女はすぐにコマロフとヴォルコフを緊急回線で呼び出した。
「硫黄です、長官。0.0013%。小惑星の岩石に含まれていたごく微量の硫黄化合物。通常の精錬プロセスでは気化して除去されるはずだった。でも、真空炉の回転による微小重力下では、それが合金の結晶格子にまるでウイルスのように潜り込んで、金属全体の結合を脆くしていた…私たちの常識が、宇宙では通じなかったのです」
「硫黄だと…? それだけの微量で…」コマロフは信じられないといった表情だった。
犯人は見つかった。だがそれだけでは意味がない。
「解毒剤は?」ヴォルコフが静かに問うた。
「まだです。ですが…必ず見つけます」
目の下の隈とは裏腹に、アンナの瞳には再び力が戻っていた。
毒を以て毒を制す。アンナは、シミュレーションの前提を根本から覆した。硫黄を除去するのではなく、硫黄と結合し、かつ合金を強化する物質を探し始めたのだ。
そしてさらに三昼夜後、彼女はついにその答えにたどり着いた。
「毒を薬に変えました」
憔悴しきった顔に勝利の光を宿し、彼女は報告した。
「精錬の最終段階で、ごく微量のイットリウムを添加し、特定の周波数の電磁波で熱処理を加える。そうすれば、有害な硫黄化合物がイットリウムと結合して無害化されるだけじゃない。逆に、合金の結晶構造をより強固に再構築する触媒として機能します!」
それは錬金術に等しい発見だった。
2013年、晩秋。アンナが開発した新しい精錬プロセスは、完璧に機能した。OD-2の加熱炉から生み出された新しい合金は、以前のものを遥かに凌駕する驚異的な強度と粘り強さを持っていた。
シップヤードの建設は猛烈な勢いで再開された。ロスコスモスの執務室でその報告を聞きながら、ヴォルコフは研究所のモニターでシップヤードの最後のトラスが連結されるのを見ていたアンナに、短い祝電を送った。
『見事な仕事だった。感謝する』
返信はすぐに来た。
『礼には及びません、長官。ただ、金属は嘘をつかなかった。それだけです』
漆黒の宇宙空間に、全長一キロメートルに及ぶ壮麗な「銀色の脊椎」が、ついにその全貌を現した。それはロシアが一度は屈しかけた困難を、自らの技術力でねじ伏せ、再び立ち上がったことの、何より雄弁な証明だった。