合金の病
2013年、初春。
漆黒の宇宙空間に、全長一キロメートルに及ぶ壮麗な「銀色の脊椎」が、その威容を現した。軌道工場OD-2の主骨格が、ついに完成したのだ。
モスクワの管制センターは、この歴史的瞬間を祝う熱狂と安堵に包まれていた。だが、設計主任のドミトリー・コマロフは、その喧騒の中心で一人、腕を組み、まだ気を緩めてはいなかった。
ブラン計画の時代から宇宙開発を支えてきた老技術者の経験が、本当の戦いはここからだと告げていた。骨格はできた。だが、その骨を満たす血肉――将来建造される往還船『ヴォストーク級』の船体を構成するための、より高度で軽量な特殊合金の生産こそが、この工場の真価を問う試金石だった。
最初のサンプルは滞りなく完成し、軌道上のストレステストが開始される。
「加圧開始」
管制官の冷静な声が響く。ロボットアームがテスト用の梁の両端に、ゆっくりと、しかし確実に力を加えていく。モニターに映る数値は、コマロフが数ヶ月かけて導き出した理論値通りに上昇していく。
設計上、この合金はダイヤモンドに匹敵する強度と、鋼鉄に準ずる靭性を持つはずだ。完璧だ。コマロフはかすかに、かすかに己の中に慢心を許した。彼の設計と思想は、宇宙でも通用するのだと。
だが、その瞬間。
キィン!
アームに取り付けたコンタクトマイクが、甲高いガラスが割れるような破壊振動を拾い上げた。スピーカーから響き渡る不吉な音に、管制室の空気が凍りつく。
モニターの中で合金の梁は、粘り強く曲がるのではなく、まるで黒曜石のようにあっけなく砕け散った。拡大された破断面の映像がスクリーンに映し出される。そこには蜘蛛の巣のように無数の微細な亀裂──マイクロクラックが走っていた。
「……あり得ない」
コマロフが椅子から立ち上がり、スクリーンに詰め寄った。その声は震えていた。
「組成も温度管理も、全て完璧だったはずだ…なぜだ…? なぜ鋼が砂になる…?」
熱暴走のような派手な事故ではない。だからこそ、より深刻で根源的な恐怖が、その場にいた全ての技術者の背筋を凍らせた。この見えない「病」の原因が解明されない限り、自分たちがこれから宇宙で作り出す全てのものは、いつ砕け散るとも知れない脆いガラス細工でしかない。
「長官、これは…」
首席補佐官のパーヴェルが言葉を失う。
別室でモニターしていたヴォルコフからの指示は、平坦な声で、しかし即座に下された。
「サンプルを回収しろ。次のソコルで地球に持ち帰れ。シップヤードの建設は…完全に停止だ。プロジェクトは座礁した」
数日後、ロスコスモスの地下会議室は、葬儀のような沈黙に支配されていた。コマロフは、回収されたサンプルのデータを前に、真っ白になった髪をかきむしっていた。彼の哲学は「頑丈さ」と「信頼性」だった。だが、目の前の現実は、その哲学そのものを嘲笑っていた。
「何かの間違いだ。計測器の故障か、あるいはなんらかの、ミスか…」
コマロフの力ない呟きを、冷たい声が遮った。
「現実から目を背けないでください、ドミトリー」
推進システムと材料科学の専門家、アンナ・ベレゾフスカヤだった。彼女はスクリーンに映るマイクロクラックの電子顕微鏡写真を指差した。
「これは内部構造の崩壊です。私たちの知らない物理法則が、この合金の中で働いている」
「物理法則だと? アンナ、君はまだ若すぎる」コマロフは苛立ちを隠さなかった。
「俺はこの道35年の経験で、この合金を設計した。経験と実績だ!。ソ連時代からの知見なんだ。それが、負けたとでも言うのか!」
「ええ、負けたのです」アンナは一歩も引かなかった。
「あなたの経験は地球という揺りかごの中のものです。ここは宇宙。私たちの常識が通用しない、新しいフロンティアです。過去の栄光にこだわっている時間はありません」
その言葉は、老技術者のプライドを深く傷つけた。だが、コマロフは反論できなかった。砕け散った合金の無惨な姿が、何より雄弁に彼の敗北を物語っていたからだ。
アンナは立ち上がると、ヴォルコフの代理としてその場にいたパーヴェルに向き直った。
「首席補佐官。私に、このサンプルの全ての生データと、モスクワ郊外の材料科学研究所の使用権限をください。私一人で結構です。この病の正体を、必ず突き止めてみせます」
彼女の瞳には、恐怖も絶望もなかった。ただ、未知の真理に挑む科学者としての、静かで燃えるような光だけが宿っていた。
コマロフは、何も言わずに部屋を出ていくアンナの、細いが決して折れることのない背中を、ただ黙って見つめることしかできなかった。
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