静かなる恐慌
本日は2話同時投稿です。こちらが先日の続きです。(._.)
その日、グダニスクで放たれた一本の「針」は、目に見えない音速でバルト海を渡り、2つの共和国の神経中枢を、同時に、そして静かに穿った。
――タリン、エストニア政府庁舎・緊急閣議室
曇天の午前。重厚な扉が閉まると同時に、室内の空気が一段と重くなった。
司法大臣が配布した薄いファイルには、昨日グダニスクで採択された条約の、ある一項にだけ、痛々しいほど鮮やかな蛍光ペンが引かれている。
「…否定はできません」
法務参事官が、眼鏡の奥の疲れた瞳で一同を見渡し、淡々と告げた。
「条文の文言は、既存のOSCEおよびEU人権基準と完全に整合性が取られています。法的に、反論の余地はありません」
「だが、法的に正しいことと、政治的に可能なことは違う!」
内務大臣が、苛立ちを隠さずにテーブルを叩いた。
「この条項を受け入れたと国民に知られれば、我々は『ロシアに譲歩した』と見なされる。言語法の運用を少しでも緩めれば、明日にも連立政権は崩壊するぞ!」
首相は、しばし沈黙したまま、壁の地図に視線を落としていた。
その指が、国境を流れるナルヴァ川の細い青い線をなぞる。
「…我々は、すでに全ての基準を満たしている、と世界に宣言する」
首相は、顔を上げて言った。
「同時に、その『実施状況の完全な可視化』を、我々自身が主導する。監査に、完璧に耐えるための儀式を増やすのだ」
外交顧問が、その意図を汲んで頷いた。
「EU委員会とOSCEに対し、こちらから『共同監視団』の受け入れを要請しましょう。監視を、我々の主権を守る“盾”にするのです」
室内の誰もが、その提案の持つ、もう一つの意味を理解していた。
盾は、同時に鏡にもなる。磨き上げれば磨き上げるほど、そこに自分たちの罪におびえる顔が、鮮明に映り込むことになる、ということを。
その波紋は、瞬く間に、政治の中枢から社会の末端へと広がっていった。
リガの国会では、「これは“人権”の仮面を被った、ロシアによる法的な侵略だ!」と叫ぶ与党の強硬派議員の怒号と、野党席からの冷ややかなヤジが交錯した。
外務大臣は「受け入れた上で、我々の取り組みこそを“新しい欧州標準”として世界に認めさせる道もある」と、必死に火消しに追われた。
同日、リガの国家安全保障局では、分析官たちが頭を抱えていた。
「この条項は、ロシア系住民だけを対象とはしていない。我が国が抱える、旧ソ連系住民の問題も、同じ俎上に載せられてしまう…!」
彼らは、ロシアという一つの火事を消すために、ほかの火種を抱え込むリスクに直面していた。
そしてブリュッセルの欧州委員会では、法務官たちが、このロシアが仕掛けた「法的ウイルス」をどう無力化するかの議論に追われていた。
「条約の解釈宣言で、全体をEU法の秩序の中に包み込む。実施の判断は、あくまで我々の『共同監視団』と、彼らが策定する『改善ロードマップ』に委ねられる、と…」
手続きという名の分厚い壁で、ロシアの針の鋭さを鈍らせようという、官僚たちの知恵だった。
だが、政治家や官僚たちの喧騒とは裏腹に、その針がもたらした痛みと、そしてわずかな希望は、もっと静かに、人々の日常に染み込んでいった。
ダウガフピルスの集合住宅では、紫色の「非市民」パスポートを持つ老女が、孫の髪を優しく撫でていた。
「新聞には、何かが変わるかもしれない、と書いてあるわ」
青年は、窓の外の雪解け水を眺めながら、力なく肩をすくめた。
「変わるなら、いいさ。でも、何かが変わる前に、俺たちが『ロシアのスパイ』だという隣人の“疑い”でまた苦しめられる。もうごめんだよ…」
テーブルの上で、彼の携帯が短く震えた。
ロシア語のニュースサイトが、プッシュ通知を知らせる。
『ロシア政府、海外同胞に向けた法的支援ホットラインを主要各国で拡充』
二人は目を合わせたが、どちらも何も言わなかった。
夕暮れのタリン旧市街では、二つのプラカードの波が、広場で静かに向き合っていた。
〈母語は、我々の尊厳だ〉
〈尊厳は、母語の広さよりも、もっと広い〉
その間を、警官隊の黒いラインが、まるで脆い防波堤のように隔てている。
一人の小柄な女性が、震える声で叫んだ。
「私の祖母は、この国で生まれ、この国で働き、税金を払い、そしてこの国で死ぬ!
それでも、彼女はまだ『誰でもない』というのですか!」
向かいの集団から、若い男が言い返す。
「俺たちの祖父母は、その尊厳を、あんたたちの言葉で奪われたんだ!
その歴史を、忘れろとでも言うのか!」
憎悪も、記憶も、そのどちらも、決して軽くはなかった。
数週間後、モスクワ。
ロスコスモスの薄暗い会議室の片隅で、ヴォルコフは、タブレットに次々と流れてくる、それら全てのニュースを、ただ無感情にスクロールしていた。
親指の先で、ミントガムの銀紙を、折り紙のように、小さく、小さく、折り畳んでいる。
「反応は、どうだ」
彼の静かな問いに、パーヴェルが、隠しきれない笑みを浮かべて答えた。
「全て、予定通りです。ブリュッセルは『手続き』という名の迷路に逃げ込み、ラトビアやエストニアは『可視化』という名のガラスの盾を構えました。
彼らは今、我々とではなく、自分たちの正義と戦っています」
「支援窓口は?」
「本日付で、EU主要国のロシア在外公館に『権利救済ホットライン』を開設しました。
『移住支援』という言葉は一切使わず、あくまで『法務相談』と『教育助成』のための窓口として。
静かに、門戸を広げておきます」
ヴォルコフは、短く頷いた。
槌ではなく、針。それも、自分ではなく、相手に、自らの手で刺させる針だ。
痛みはゆっくりと、しかし確実に、彼らの体制を内側から蝕んでいくだろう。
その日の夜、バルト海の湾口に浮かぶ灯台の光は、いつもと変わらず、暗い海を照らしていた。
港では、クレーンが動きを止め、風に弛んだ旗が、静かに夜の闇に溶けている。
今日、この海沿いの国々で交わされた、怒りや、悲しみや、希望の言葉は、歴史上のいかなる砲声に比べても、あまりに静かだった。
だが、静かな言葉の傷ほど、深く、そして長く、癒えることはない。
そのことを、この盤面を動かしている者たちだけが、知っていた。
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