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グダニスクの風

2011年初春、ポーランド、グダニスク。

かつて自由を求める労働者たちの声が響いた歴史的な造船所は、バルト海の鉛色の空と海を背景に、厳かな静けさに包まれていた。

冷たい潮風が、会議場前に林立するNATOとCSTO、そして欧州各国の旗を、まるでためらうように揺らしている。


会場の最前列で、セルゲイ・ヴォルコフは腕を組み、静かに壇上を見つめていた。

彼の頭の中では、この日のために費やされた数ヶ月の水面下での交渉と計算が、今まさに一つの到達点を迎えようとしていた。


壇上にまず上がったのは、ドイツの外務大臣だった。

彼は、この歴史的な合意の「現実的な利益」を、冷静な口調で説明した。


「本日、我々が署名する『改訂版・新欧州安全保障協力条約』は、欧州から『冷戦の亡霊』を完全に追放するものです。2006年の第一次条約をさらに推し進め、ロシア連邦は、その通常戦力の主力をウラル山脈以東へ再配置する。

それに応じ、NATOもまた、バルト三国に駐留する部隊の規模を制限し、さらにロシアの隣国ベラルーシも、その戦力規模の透明化と査察を受け入れる。

これは、信頼醸成における、歴史的な一歩です」


会場が安堵と歓迎の拍手に包まれる。

ヴォルコフは、その光景を冷ややかに観察していた。


(……見事な前菜だ。ドイツは、自国の経済的利益と安全を確保し、満足している。

彼らは、この条約の本当の『メインディッシュ』には気づいていない)


そして、スタニスラフ・ソクーロフ大統領が、静かに演壇に立った。

彼はまず、ポーランドの地で起きた悲劇と、その後の復興への敬意を、流麗なポーランド語で語り、聴衆の心を掴んだ。

そして、深く息を吸い込むと、まるで法廷で最終弁論を始めるかのように、静かに、しかしホール全体に響き渡る声で切り出した。


「私たちの大陸は、あまりにも長く、痛ましい記憶に囚われてきました。

その記憶は時に正義を呼び起こしましたが、時に、新たな不正義を生み出す温床ともなりました」


一瞬、会場の空気が引き締まる。

エストニアとラトビアの代表団が、ソクーロフの意図を察し、こわばった表情で固唾をのむのが見えた。


「歴史の被害者であった国々が、時を経て自らが受けた苦しみと同じ痛みを、意図せずして国内の少数者に与えてしまう。

この悲劇の連鎖は、ヨーロッパが何度も繰り返してきた過ちです。

私は、二十一世紀を生きる我々の世代が、その連鎖を断ち切らねばならないと、固く信じています」


ヴォルコフの口元に、誰にも気づかれない、ごくかすかな笑みが浮かんだ。


(来たか。槌ではなく、針が。それも、相手に自ら握らせる、毒の針が)


ソクーロフは、手元の資料には一切目をくれず、聴衆一人ひとりの目を見据えるように続けた。


「本日改訂されたこの条約は、単なる軍事バランスの調整文書ではありません。

その最も重要な点は、CSTO、NATOの全ての加盟国に対し、自国民であれ、国内の少数民族であれ、その基本的人権と文化的尊厳を保障することを、条約上の『義務』とするという一項です。

これは内政干渉ではない。

我々が、同じ安全保障の傘の下に立つための、最低限の、そして絶対的な約束事です」


その言葉は、もはや単なる政治家の演説ではなかった。

国際法の専門家としての厳密さと、人権弁護士のような鋭い倫理観が、刃のように研ぎ澄まされていた。


「ロシアは、国境の外にいる同胞を守るための責務を、決して放棄しません。

しかし、その行使は戦車によってではなく、法と、そして今日我々が合意するこの条約によって、行われるべきです。

我々は必要とあらば、彼らを祖国へ迎え入れる万全の準備もある。

だが、私は信じたい。

この偉大なヨーロッパは二十一世紀の今、被害者が新たな加害者となるあの忌まわしい歴史を、繰り返さないと」


会場の奥で、プレス席が大きくどよめいた。

アメリカ代表団の席では、国務次官が眉間に深い皺を寄せ、怒りを押し殺すようにメモを取っている。

彼らは、この「人権条項」という名の罠に気づいている。

だが、人権という、西側が掲げる最も神聖な価値を、ここで公然と否定することはできない。

なにより、この条約はアメリカを対象外としていた。

つまり、口を出す権利がないのだ。


ソクーロフは、その視線を真正面から受け止め、演説を締めくくった。


「安全保障は、ミサイルの数だけで築かれるものではありません。

自らの足元で暮らす人々の尊厳を守れない国家に、本当の安全は決して訪れない。

そして、その尊厳を守り抜くことこそが、我々全員の、共通の未来を守る、唯一の道なのです」


演説が終わると、一瞬の静寂の後、万雷の拍手が巻き起こった。

外のバルト海から吹き込む風が、会場の旗を大きく揺らした。


ヴォルコフは、その光景から静かに目をそらし、ポケットの中で、ミントガムの銀紙を、小さく、そして固く、握りしめていた。



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