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絹の首輪

ヴォルコフは、しばし黙考の海に沈んでいた。

彼の視線は、クレムリンの主執務室の豪奢な装飾ではなく、机上に広げられた地図の一点――バルト海の、さざなみのような海岸線に注がれている。


(ペトロフ前大統領なら、この問題を机ごと、あるいは国境線ごと、盤面をたたき割ったかもしれない。オリガルヒ掃討のように。

だが、目の前の男は『法の支配』を自らの力の源泉としている。ならば、彼に握らせるべきは、巨大な槌ではない。外科医が持つ、一本の冷たい針だ)


「大統領閣下」


ヴォルコフは静かに口を開いた。

その声は、この部屋の主が変わったことを正確に認識し、完璧にチューニングされていた。


「この件は、三段階で進めるべきです。

全てを合法的に、国際社会の誰もが『正しい』と認める手続きの中で。

そして、我々が直接手を下すのではなく、彼ら自身の内部から、変化を生み出す形で」


ソクーロフは無言で頷き、わずかに身を乗り出した。

その目は、ヴォルコフの言葉を一字一句たりとも聞き逃すまいとする、法廷での証人尋問のような集中力を宿していた。


「第一の針は、『法の鏡』です」


ヴォルコフは続けた。


「我々が彼らの人権問題を直接非難しても、それはプロパガンダの応酬になるだけです。

そうではなく、西欧で最も権威のある人権団体や、独立系の大学研究機関に匿名で資金と情報を提供するのです。

彼らに『EU加盟国における言語的マイノリティーの市民権に関する包括的調査報告書』を発表させる。

その報告書が、エストニアとラトビアの制度的差別を、EUが掲げる理想や理念から、いかに逸脱しているかを、客観的な統計データで“発見”するのです」


「……我々が抗議するのではない。法の鏡を彼らの眼前に置き、そこに映る醜い姿を、欧州全体に目撃させる、か」


ソクーロフが、その策の持つ知的な毒を正確に理解し、低く呟いた。


「見事な一手だ」


「第二の針は、『黄金の手錠』です」


ヴォルコフは、指でバルト沿岸の港湾都市をゆっくりとなぞった。


「リガ、タリン。

これらの港とロシアを結ぶコンテナ航路、観光客向けのフェリー、そしてパイプラインを通じたエネルギー取引を、今後数年で倍増させます。

ただし、その雇用の創出と利益が、意図的にロシア系住民が多数を占める地域や企業に集中するよう、関税や許認可で誘導するのです」


「政府がロシア系住民を差別すれば、自国の物流が滞り、観光収入が消え、暖房が止まる。

そういう構造を静かに作り上げる。

彼らの国の民族主義者と、経済界の現実主義者とを、内側から戦わせるのです。

政府がどれだけ意固地でも、産業界が自らの利益を守るために、ロシア系住民という『資産』を守り始めるでしょう」


ソクーロフの眉が、わずかに動いた。

ヴォルコフは、その反応を意に介さず、最後の、そして最も残酷な針について語り始めた。


「第三の針は、『未来の選択』です。

ロシア系住民の若者たちを対象とした、大規模な奨学金制度と技術研修プログラムを設立します。

モスクワやサンクトペテルブルクの最高学府で、あるいはロスコスモスの施設で、彼らに世界最高水準の教育と技術を無償で与える。

その頭脳と才能を、我々の未来のために磨き上げさせるのです。

同時に、欧州の学生も文化交流の名目で積極的に受け入れる。

エストニアとラトビアの政府が、自国の若者がロシアへ行くのを妨害すれば、彼らはEUの中で『自由な移動を阻害する非寛容な国家』という悪評を買う。

かといって放置すれば、数年のうちに、国内に残った若者とロシアで学んだ若者との間に、埋めようのない知性と機会の格差が生まれる。

我々は、彼らの最も優秀な世代を、静かに、しかし根こそぎ、未来ごと引き抜くのです」


三本の針――法、経済、そして未来。

そのどれもが、戦車の大砲より静かで、しかし確実に、相手の体制を内側から蝕んでいく。


「……だが、セルゲイ」

ソクーロフが静かに問うた。

「それでもなお、彼らが頑なに態度を改めなかった場合は、どうする?」


ヴォルコフは、その問いを待っていたかのように、低く、しかしはっきりと答えた。

その声には、慈悲も怒りもなかった。

ただ、冷徹な事実だけがそこにあった。


「その時は、我々が彼らを『救出』します。

ロシアへの帰国を希望する全ての同胞に対し、市民権取得手続きを前例のないレベルで簡略化し、住居と雇用を含む万全の帰国支援パッケージを用意すると、世界に発表するのです。

我々は、ただ、誇りを持って、見捨てられた同胞たちを祖国に迎え入れるだけです。

自国の優秀な若者たちに、次々と国を捨てられる国家が国際社会でどう見られることになるか……その屈辱は、いかなる経済制裁よりも、彼らの誇りを打ち砕くでしょう」


ソクーロフは椅子の背にもたれたまま、長く、そして深く息を吐いた。

その表情には、感嘆と、そしてある種の畏怖が入り混じっていた。


「……戦車を一両も動かさず、ドルをびた一文失うこともなく、一つの国家を、ここまで内側から追い詰められるものなのか」


「槌ではなく、針です、大統領閣下」


ヴォルコフの声は、秋の空気のように、どこまでも冷ややかだった。


「痛みは静かに、しかし骨の髄まで、必ず伝わります」


窓の外、クレムリンの上空を渡る風が秋の匂いを運んできた。

バルトの岸辺に届くその風が、いつの日か、彼らの足元に、黄金色に色づいた抵抗という名の枯葉を静かに積もらせていくことになる。

その光景を、部屋にいる二人は、すでに見ていた。

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