二つの旗
2010年秋、パリ。ESA本部。
ジャン=ピエール・アルノーの執務室は、まるで葬儀の後のように静まり返っていた。
机の上には、一枚の公式通達。ブリュッセルの欧州議会から送られてきた、その紙には、外交的な美辞麗句で塗り固められた、無慈悲な命令が記されていた。
『…ロシア連邦との建設的パートナーシップを深化させ、欧州の宇宙輸送における経済的利益を最大化するため、ESAはロスコスモスの提示する『RODIN』へ準拠する。これは新国際規格(CII-1)へ適合した…』
「準拠、ではない。降伏だ」
アルノーは、誰に言うでもなく呟いた。それは諦観に染まった声だった。
ヴォルコフが仕掛けた、国際標準の皮を被ったロシア独自の工業規格『RODIN』という名のトロイの木馬。その危険性をいくら訴えても、結局は政治家たちの耳には届かない。
彼らの耳に聞こえるのは、ロシアが約束する安価な天然ガスと天然資源、夢のような月への輸送コストだけだ。だからこそ、アルノーはヴォルコフに白旗を掲げ、規格競争でRODINを認めざるを得なかった。
「副長官、ドイツ航空宇宙センター(DLR)からです」
秘書の疲弊しきった声が、アルノーの思考を遮った。
「来月、ロスコスモスの投資家向け説明会に、我が国の産業界代表団と共に参加する、と。
ESAにも、オブザーバーとして同席を求めています」
アルノーは目を閉じた。
もう、終わりだ。
ドイツがロシアに融和姿勢をとったのは、ここ数年のロシア側の軍縮姿勢が原因だ。
彼らは、ロシアが再び目覚めるのを恐れている。
その結果――米国の主導する国際包囲網は、欧州の要を失い、崩壊を始めた。
彼は、自分が束ねようとしたESAが、今や国家間の利害によってバラバラに引き裂かれ、機能不全に陥っていくのを、ただ見ていることしかできなかった。
同時期、ワシントンD.C. NASA本部。
『90 DAYS』と書かれたホワイトボードの前で、チャールズ・ボレンス長官は、欧州からの機密報告を読んでいた。
その眉間には、深い渓谷のような皺が刻まれている。
「……ドイツは、我々の警告よりも、ロシアの安いガスを選んだ、と」
ロリ・ガーバル副長官が、静かな怒りを込めて言った。
「彼らは、我々が築こうとしている『安全な航路』よりも、ロシアがばら撒く『格安のフェリー券』に群がったのです」
「予想通りだ」
ボレンスは頷いた。
「ならば、我々は我々の船に乗る者たちだけで、新しい艦隊を編成するまでだ」
その日を境に、NASAの動きは加速した。
彼らが声をかけたのは、もはや欧州ではない。
ロシアの台頭を、アメリカと同じように、自国の安全保障に対する直接的な脅威と捉える国々だった。
まず、日本。
JAXAに対し、NASAは月周回軌道に建設する新ステーション『ゲートウェイ』の居住モジュールとロボットアーム開発の主導権という、破格の条件を提示した。
それは、ロシアの下請けになるよりも遥かに名誉ある、米国の主要パートナーという地位の約束だった。
次に、宇宙ロボット技術の雄、カナダ。
そして、ファイブ・アイズと呼ばれる諜報同盟を共有する、イギリスとオーストラリア。
彼らには、深宇宙通信網の共同管理と、宇宙デブリや小惑星を監視する「宇宙交通管制システム」の構築という、不可欠な役割が与えられた。
アメリカは、ロシアのように巨大な『工場』を宇宙に作るのではない。
その工場へ至る全ての『航路』と『港』を支配し、そこで自分たちの『規則』を適用する。
そのための、新たな海洋同盟ならぬ宇宙同盟の結成を、静かに、しかし着実に進め始めていた。
モスクワ、ロスコスモス本部。
ヴォルコフの執務室には、世界中の投資銀行や政府系ファンドから集まったアナリストたちが、代わる代わる訪れていた。
彼は、OD-2クラスター計画を、もはやロシアの国家プロジェクトとしてではなく、「人類の未来を拓く、新たな商業ベンチャー」として売り込んでいた。
「……ヴォルコフ長官」
ブラジルから来た投資コンサルタントが、興奮した面持ちで尋ねた。
「この『シップヤード』の第一期工事の総工費は、およそ80億ドルと試算されていますが、資金調達の内訳は?」
ヴォルコフは、傍らに控えるパーヴェルに目配せした。
パーヴェルは、完璧な笑みを浮かべて答える。
「総工費の三十%は、すでにロシアとドイツの産業界コンソーシアムが出資を約束しています。
残りの七十%について、本日ご列席の皆様のような、志を同じくする国際的なパートナーからの投資を募っている段階です」
彼は続けた。
「このプロジェクトは、国家が主導するものではありません。
あくまで商業ベースの事業です。
我々ロスコスモスは、技術と、そして最初の顧客になるという形で、この事業に参加するに過ぎません」
それは、あまりにも巧みなレトリックだった。
西側が築こうとした包囲網が崩れた今、ヴォルコフは、政治的な対立の構図を、純粋な経済的投資の競争へとすり替えてしまったのだ。
この「金のなる木」に乗り遅れまいと、新興国やオイルマネーが、雪崩を打ってモスクワの門を叩き始めていた。
執務室の窓の外、モスクワの空は低く垂れ込めている。
だが、その雲の遥か上、漆黒の宇宙空間では、二つの旗が、静かに、しかし確かに掲げられようとしていた。
一つは、巨大な工場と資源の独占を目指す、ロシアの旗。
そしてもう一つは、その航路と規則の支配を目指す、アメリカの旗。
新しい冷戦の舞台は、もはやベルリンの壁ではなく、地球と月の間の、広大な真空へと移っていた。
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