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巨人の釣り針

2010年夏。モスクワ郊外、ロスコスモス深宇宙管制センター。


その司令室は、戦争の最前線にある司令部壕のような、静かで濃密な緊張に支配されていた。

壁一面の巨大スクリーンには、地球から40000キロ離れた暗黒空間を、一隻の無人タグボートが静かに航行する映像が映し出されている。

その傍らでは、OD-1の稼働状況を示すテレメトリデータが、緑色の数字の川となって絶え間なく流れ続けていた。


「キプロス経由のベアリング、通関で五日の遅延。補給船の打ち上げ、二十四時間後に再設定」

「JAXAとの通信回線に、原因不明のノイズが増加。バックアップに切り替える」


管制官たちの声は低い。

ここでは、ミサイルや砲弾は飛び交わない。

この「静かなる戦争」で飛び交うのは、輸出規制、特許異議申立て、保険料率の改定、そして外交ルートを通じた笑顔の妨害工作だ。

アメリカが本気で仕掛けてきた「盤面の外」の戦いは、OD-2の建設スケジュールに、目に見えない無数の錨を打ち込んでいた。


その重苦しい空気の中、スクリーンの中心で、人類史上誰も見たことのない光景が、静かに始まろうとしていた。


目標は、直径わずか四メートル、鉄とニッケルを主成分とする、名もなき金属質の小天体。

その岩塊に、タグボートからゆっくりと放出された、カーボンナノチューブ製の巨大な漁網が、音もなく覆いかぶさっていく。


「……捕獲シーケンス、最終段階へ」


司令室にいる誰もが息を呑んだ。

この小天体の軌道、そしてその組成。

それは、西側諸国のどの観測データにも存在しない、ロシアだけが「知っていた」ものだ。

未来メールという、禁断の釣り餌で釣り上げた、最初の獲物。


網が完全に閉じられ、タグボートのイオンエンジンが青白い光を放ち、ゆっくりと、しかし確実に、その小さな「鉱山」を地球圏へと牽引し始める。


その瞬間、司令室の別のスクリーンが、一つのアラートを表示した。


OD-1: STRUCTURAL EXTRUSION B-01, COMPLETE.


軌道上の工場から、最初の建材が、まるで銀色の産声のように、ゆっくりと宇宙空間へと吐き出されたのだ。

長さ二十メートル、寸分の狂いもない、チタン合金製のトラス構造体。

OD-2の最初の骨格となる部品だった。


司令室が、抑えきれない安堵と興奮のどよめきに包まれる。

その喧騒から一歩離れたガラス張りのVIPルームで、ESA宇宙輸送部門副長官ジャン=ピエール・アルノーは、ただ呆然と、二つのスクリーンに映る光景を交互に見ていた。

片や、宇宙から資源を釣り上げ、片や、宇宙で未来を建造する。

この光景を前に、自分たちが地上で繰り広げている供給停止や規格戦争が、あまりにも矮小で、旧時代的な悪あがきのように思えてならなかった。


「……ヴォルコフ長官」


いつの間にか隣に立っていたヴォルコフに、アルノーは声をかけた。

その声は、自分でも驚くほどにかすれていた。


「あなたは本気で、NASAに、あの巨人に勝てるとお思いか」


ヴォルコフは、スクリーンから目を離さないまま、静かに答えた。


「我々は、NASAと戦っているわけではない」

「では、誰と」

「時間と、です」


ヴォルコフは、初めてアルノーの方へ向き直った。

その瞳には、何の感情も浮かんでいない。


「副長官。あなた方の政府が、この数ヶ月で我々にしてきたことは、実に興味深い。健全な競争は、未来の扉を開く。

だが、あなた方のやり方は、どうも……私が子供の頃に伝え聞いた、古い時代の亡霊を思い出させる」


ヴォルコフは、言葉を区切った。


「赤い貴族ノーメンクラトゥーラたち、ですよ。

彼らは、新しい才能や技術を押さえ込み、自らの力を超えさせようとはしなかった。

ただ、自らが握る規則とコネ、そして官僚機構の力で、腐らせようとした。

その結果、どうなったかは、あなたもご存知のはずだ」


その言葉は、鋭利なガラスの破片のように、アルノーのプライドに突き刺さった。

技術者として、そして宇宙開発という未来を担う組織の指導者として、これ以上の侮辱はなかった。

自分たちが今やっていることは、革新ではなく、ただの足の引っ張り合いだ、と。

真実だからこそ、反論の言葉が出てこない。顔に血が上るのが分かった。

技術者としての、そして指導者としての、二重の熱い羞恥だった。


だが、その羞恥の奥から、全く別の感情が、静かに芽生え始めていた。

敬意、だ。


この男は、自分たちが見ている盤面とは、全く違う次元で戦っている。

彼が恐れているのは、ワシントンの予算委員会でも、ブリュッセルの規制委員会でもない。

もっと巨大で、根源的な何かだ。


(……何かがある)


アルノーの脳裏に、欧州の政治家たちとの会話が蘇る。

彼らは、諜報機関から上がってきた断片的な報告を元に、こう囁き合っていた。

「ロシアの異常なまでの確信と成功の裏には、我々の知らない、何か決定的な“シード”があるはずだ」と。


目の前の男が見せる、神のような確信。

それは、単なる自信や傲慢さから来るものではない。

彼は、本当に何かを「知っている」のだ。


アルノーは、初めて、この男を好敵手ライバルとしてではなく、遥か先の、自分には見えない地平を見据える、孤独な開拓者として見ていた。


「……我々は」

アルノーは絞り出すように言った。

「我々は、あなた方の“安全基準”を、検討する必要があるだろう」


それは、事実上の、白旗だった。


ヴォルコフは、ただ静かに頷くと、再びスクリーンへと視線を戻した。

そこでは、捕獲された小天体が、新しい太陽系の主人の元へと、長い、長い旅を始めていた。

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