表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
65/105

赤いスタンプの雨

2010年5月、モスクワ。

ロスコスモス本部の地下、外部ネットワークから物理的に隔離された第3作戦室は、コーヒーの匂いと不眠の熱気に満ちていた。


部屋の隅で、コピー機が淡々と紙を吐き出し続けている。

その一枚一枚に、無慈悲な赤インクのスタンプが押されていた。


DENIED.

HOLD.

FURTHER REVIEW REQUIRED.


「…まただ」


首席補佐官のパーヴェルが、その紙の山を吐き捨てるように見た。

「スウェーデン製の高純度キセノン、輸出許可保留。理由は『EU域内の需給逼迫のため』。週末の新聞は『夏のネオン看板需要が過去最高』とでも書き立てるつもりだろうな」


彼の背後にある巨大なホワイトボードには、数ヶ月前にNASAが宣言した反撃の三原則が、まるで敵の軍旗のように大きく書きつけられていた。


FUEL.(燃料)

PORT.(港)

RULES.(規則)


パリでの華々しい発表から、わずか三ヶ月。

アメリカを中心とした西側の包囲網は、もはや外交的懸念などという生易しいものではなく、プロジェクトの血管を一本ずつ、確実に締め上げにかかる経済戦争へと移行していた。


「燃料(FUEL)を絞められるのは想定内だったが、連中は本気で港(PORT)を封鎖しに来たぞ」


設計主任のコマロフ技師が、タブレット端末を机に放り出す。

ソ連時代からの叩き上げである彼の顔には、疲労と、そして挑戦者を前にした技術者特有の獰猛な光が浮かんでいた。


「NASAとESAが共同で『月回廊における安全保障基準』の草案をITU(国際電気通信連合)に提出した。

全ての宇宙機のドッキング規格を『CII-1』と称する新規格で統一、電力供給や通信プロトコル、非常時のフェイルセーフ機構までを義務化する、と。

この規格に準拠しない施設は、『天文学的な割増保険料の対象とする』。ロンドンのロイズ保険組合の代理店が、もう根回しに動き始めているそうだ」


推進システム専門家のアンナ・ベレゾフスカヤが、冷ややかに腕を組む。


「つまり、我々のOD-2を彼らの“国際標準”に合わせない限り、保険も、地上通信局の利用も、将来的な部品調達も、全てが法外なコストになるか、門前払いになるということね。

綺麗な言葉で言えば安全対策、その実態は規格を使った兵糧攻めよ」


「それで、OD-2の翼はどうなる?」


パーヴェルがベレゾフスカヤに目だけで促す。


「ドイツAZUR社製の高性能太陽電池は、『友好国向けの生産ライン優先』という名目で無期限の棚上げ。

回路を保護するゲルマニウム基板も供給が滞っている。

国産品で代替は可能だが、発電効率が劣る分、パネルの総面積が二割増える。

その重量と熱設計の帳尻は、全てOD-2の構造体そのもので支払うしかない」


コマロフが、指の関節で机をコツコツと叩いた。


「支払うのは構わん。だが、その増えた資材を運ぶのは誰だ?

フレームを分割すれば、ソコルの打ち上げ回数は倍になる。

その度に、射場の利用料も、割増しの保険料も、地上局の利用料も、全部きっちり請求される。連中のルールの上で、だ」


その重い空気を断ち切るように、会議室のドアが開いた。

ヴォルコフだった。片手にロールアップされた青焼きの図面筒を、もう片方の手に、なみなみと注がれた紙コップのコーヒーを持って。


彼は壁のFUEL / PORT / RULESを一瞥すると、まるで長年見慣れた風景のように、どさりと椅子に腰を下ろした。


「ならば、そのルールに乗ってやろう。だが、全部ではない」


ヴォルコフは、図面筒から一枚の設計図を広げた。

OD-2に増設される、新しいドッキングポートの断面図だ。円形の“輪”に、等間隔にスロットが刻まれている。


「連中が公開したCII-1規格の、最小限の仕様だけを満たす。

電力バスの基本形、機械的なインターフェース、そして挨拶代わりの低速通信。これだけだ。

だが、OD-2の真の心臓部……高負荷の電力供給、工場全体の統合制御、そして何より、あの冶金ラインを動かすための産業用バスは、我々独自の『RODIN』規格で上書きする」


コマロフの口角が、ニヤリと上がった。


「見た目は国際標準の港、しかし大型船が本当に停泊できるのは、我々の許可を得た船だけ、ということですか」


「それは、あまりに露骨な“悪意”として受け取られませんか?」


ベレゾフスカヤが慎重に問う。


「だから、そう見えないようにする。それがパーヴェルの仕事だ」


ヴォルコフはコーヒーを一口すすった。


「名目は全て『安全』だ。高電力系統を分離するのは、致命的なアーク放電と静電気を防ぐため。

冶金ラインを独立制御するのは、サイバー攻撃と火災延焼を防ぐための区画化。

反論の余地がないほど、全てが“正しい”安全対策だ」


パーヴェルは肩をすくめた。


「確かに、正しい嘘ほど、よく通りますからね」


彼は次の封筒を開く。


「“燃料(FUEL)”は、すでに迂回ルートを確保済みです。

スウェーデンが駄目でも、キセノンは世界中に散らばっている。

中国、ポーランド、カザフスタンの化学プラント。

複数のガス会社に、看板だけが違う別々の会社として、精製を分割発注。

輸送は『高純度産業ガス』の扱いで行う。『ロケット推進剤』というラベルを剥がすだけで、ほとんどの規制を抜けられる」


「炉の真空ポンプは?」


「二段構えだ」


コマロフが即答し、ペンで図を描き始めた。


「まず、国産の旧式ポンプを複数台並列で動かし、必要とされる排気量を無理やり稼ぐ。

寿命は短いが、壊れたら次のポンプに切り替えればいい。

そして、炉の建設スケジュールを完全に変更する。構造体や外壁パネルは後回しだ。

まず、“裸の炉”を宇宙へ上げる。そして、来年の夏が終わる前には、世界中に見せつけてやるんだ。『宇宙で溶けて流れる、本物の金属』の映像をな」


「…化粧は後から、か」


ヴォルコフがわずかに目を丸くした。


「その通り」


コマロフは短く言い切った。


「世界が欲しがっているのは、完成された美しい宇宙工場じゃない。

彼らが本当に恐れているのは、我々が、本当に『宇宙で物を作れる』という、その事実。

その映像を一本流せば、西側の規格戦争など、一瞬で色褪せる」


沈黙が落ちた。

誰も反対しなかった。全員が、「来年の夏」という言葉の持つ政治的な意味を正確に理解していた。


パーヴェルが、最後の紙束を掲げた。


「そして、“規則(RULES)”へのカウンター。

ESAの国際標準化ワーキンググループに、こちらから『より高いレベルの安全基準』を提案します。

つまり、先ほど長官がおっしゃったRODIN規格の“建前”の部分……高電力バスの区画化義務や、帯電監視の閾値標準化。これを、我々が善意の国際貢献として、無償で提供するのです」


「ついでに、パリで会ったアルノーの部下たちに、OD-1の利用スロットをいくつか無償で提供する。

政治家に恩を売るより、現場の科学者に恩を売った方が、仕事が早い。

彼らが『ロシアの新システムは安全だ』という論文を一本でも書けば、それが我々の規格の、何よりの権威付けになる」


「我々の“嘘”を、敵側の論文で固めさせる、と」


ベレゾフスカヤは呆れたように、しかしどこか楽しそうに言った。


「嘘じゃない」


ヴォルコフが穏やかに首を振った。


「我々が、先に結果を出す。ただそれだけだ」


その時、机の端で、暗号化された古い携帯端末が短く震えた。

パーヴェルが画面をちらりと見て、口の端を吊り上げた。


「…アルノーからです。『非公式な安全基準に関する意見交換』の打診が。場所はESA本部の、窓のない小部屋。そこのコーヒーは、相変わらずひどく不味い、だそうです」


「行け」


ヴォルコフは即答した。


「厨房の裏口から入って、議論のまな板と、交渉の包丁は、こっちで用意したものを置いてこい」


パーヴェルは頷き、ポケットからミントガムを取り出した。


「長官。“最初の溶解”、本気で来年の夏には間に合わせる気で?」


「間に合わせる。夏は、政治のための季節だ」


ヴォルコフは、パーヴェルからガムを受け取り、銀紙を破った。

口の中に、薄いミントの味が広がる。


「それに――」


彼は、ホワイトボードに書かれた敵の戦略を、静かに見据えた。


「金属には、嘘を押し込めないんだ」



更新の励みになります。ブクマ・感想・評価いただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ