赤いスタンプの雨
2010年5月、モスクワ。
ロスコスモス本部の地下、外部ネットワークから物理的に隔離された第3作戦室は、コーヒーの匂いと不眠の熱気に満ちていた。
部屋の隅で、コピー機が淡々と紙を吐き出し続けている。
その一枚一枚に、無慈悲な赤インクのスタンプが押されていた。
DENIED.
HOLD.
FURTHER REVIEW REQUIRED.
「…まただ」
首席補佐官のパーヴェルが、その紙の山を吐き捨てるように見た。
「スウェーデン製の高純度キセノン、輸出許可保留。理由は『EU域内の需給逼迫のため』。週末の新聞は『夏のネオン看板需要が過去最高』とでも書き立てるつもりだろうな」
彼の背後にある巨大なホワイトボードには、数ヶ月前にNASAが宣言した反撃の三原則が、まるで敵の軍旗のように大きく書きつけられていた。
FUEL.(燃料)
PORT.(港)
RULES.(規則)
パリでの華々しい発表から、わずか三ヶ月。
アメリカを中心とした西側の包囲網は、もはや外交的懸念などという生易しいものではなく、プロジェクトの血管を一本ずつ、確実に締め上げにかかる経済戦争へと移行していた。
「燃料(FUEL)を絞められるのは想定内だったが、連中は本気で港(PORT)を封鎖しに来たぞ」
設計主任のコマロフ技師が、タブレット端末を机に放り出す。
ソ連時代からの叩き上げである彼の顔には、疲労と、そして挑戦者を前にした技術者特有の獰猛な光が浮かんでいた。
「NASAとESAが共同で『月回廊における安全保障基準』の草案をITU(国際電気通信連合)に提出した。
全ての宇宙機のドッキング規格を『CII-1』と称する新規格で統一、電力供給や通信プロトコル、非常時のフェイルセーフ機構までを義務化する、と。
この規格に準拠しない施設は、『天文学的な割増保険料の対象とする』。ロンドンのロイズ保険組合の代理店が、もう根回しに動き始めているそうだ」
推進システム専門家のアンナ・ベレゾフスカヤが、冷ややかに腕を組む。
「つまり、我々のOD-2を彼らの“国際標準”に合わせない限り、保険も、地上通信局の利用も、将来的な部品調達も、全てが法外なコストになるか、門前払いになるということね。
綺麗な言葉で言えば安全対策、その実態は規格を使った兵糧攻めよ」
「それで、OD-2の翼はどうなる?」
パーヴェルがベレゾフスカヤに目だけで促す。
「ドイツAZUR社製の高性能太陽電池は、『友好国向けの生産ライン優先』という名目で無期限の棚上げ。
回路を保護するゲルマニウム基板も供給が滞っている。
国産品で代替は可能だが、発電効率が劣る分、パネルの総面積が二割増える。
その重量と熱設計の帳尻は、全てOD-2の構造体そのもので支払うしかない」
コマロフが、指の関節で机をコツコツと叩いた。
「支払うのは構わん。だが、その増えた資材を運ぶのは誰だ?
フレームを分割すれば、ソコルの打ち上げ回数は倍になる。
その度に、射場の利用料も、割増しの保険料も、地上局の利用料も、全部きっちり請求される。連中のルールの上で、だ」
その重い空気を断ち切るように、会議室のドアが開いた。
ヴォルコフだった。片手にロールアップされた青焼きの図面筒を、もう片方の手に、なみなみと注がれた紙コップのコーヒーを持って。
彼は壁のFUEL / PORT / RULESを一瞥すると、まるで長年見慣れた風景のように、どさりと椅子に腰を下ろした。
「ならば、そのルールに乗ってやろう。だが、全部ではない」
ヴォルコフは、図面筒から一枚の設計図を広げた。
OD-2に増設される、新しいドッキングポートの断面図だ。円形の“輪”に、等間隔にスロットが刻まれている。
「連中が公開したCII-1規格の、最小限の仕様だけを満たす。
電力バスの基本形、機械的なインターフェース、そして挨拶代わりの低速通信。これだけだ。
だが、OD-2の真の心臓部……高負荷の電力供給、工場全体の統合制御、そして何より、あの冶金ラインを動かすための産業用バスは、我々独自の『RODIN』規格で上書きする」
コマロフの口角が、ニヤリと上がった。
「見た目は国際標準の港、しかし大型船が本当に停泊できるのは、我々の許可を得た船だけ、ということですか」
「それは、あまりに露骨な“悪意”として受け取られませんか?」
ベレゾフスカヤが慎重に問う。
「だから、そう見えないようにする。それがパーヴェルの仕事だ」
ヴォルコフはコーヒーを一口すすった。
「名目は全て『安全』だ。高電力系統を分離するのは、致命的なアーク放電と静電気を防ぐため。
冶金ラインを独立制御するのは、サイバー攻撃と火災延焼を防ぐための区画化。
反論の余地がないほど、全てが“正しい”安全対策だ」
パーヴェルは肩をすくめた。
「確かに、正しい嘘ほど、よく通りますからね」
彼は次の封筒を開く。
「“燃料(FUEL)”は、すでに迂回ルートを確保済みです。
スウェーデンが駄目でも、キセノンは世界中に散らばっている。
中国、ポーランド、カザフスタンの化学プラント。
複数のガス会社に、看板だけが違う別々の会社として、精製を分割発注。
輸送は『高純度産業ガス』の扱いで行う。『ロケット推進剤』というラベルを剥がすだけで、ほとんどの規制を抜けられる」
「炉の真空ポンプは?」
「二段構えだ」
コマロフが即答し、ペンで図を描き始めた。
「まず、国産の旧式ポンプを複数台並列で動かし、必要とされる排気量を無理やり稼ぐ。
寿命は短いが、壊れたら次のポンプに切り替えればいい。
そして、炉の建設スケジュールを完全に変更する。構造体や外壁パネルは後回しだ。
まず、“裸の炉”を宇宙へ上げる。そして、来年の夏が終わる前には、世界中に見せつけてやるんだ。『宇宙で溶けて流れる、本物の金属』の映像をな」
「…化粧は後から、か」
ヴォルコフがわずかに目を丸くした。
「その通り」
コマロフは短く言い切った。
「世界が欲しがっているのは、完成された美しい宇宙工場じゃない。
彼らが本当に恐れているのは、我々が、本当に『宇宙で物を作れる』という、その事実。
その映像を一本流せば、西側の規格戦争など、一瞬で色褪せる」
沈黙が落ちた。
誰も反対しなかった。全員が、「来年の夏」という言葉の持つ政治的な意味を正確に理解していた。
パーヴェルが、最後の紙束を掲げた。
「そして、“規則(RULES)”へのカウンター。
ESAの国際標準化ワーキンググループに、こちらから『より高いレベルの安全基準』を提案します。
つまり、先ほど長官がおっしゃったRODIN規格の“建前”の部分……高電力バスの区画化義務や、帯電監視の閾値標準化。これを、我々が善意の国際貢献として、無償で提供するのです」
「ついでに、パリで会ったアルノーの部下たちに、OD-1の利用スロットをいくつか無償で提供する。
政治家に恩を売るより、現場の科学者に恩を売った方が、仕事が早い。
彼らが『ロシアの新システムは安全だ』という論文を一本でも書けば、それが我々の規格の、何よりの権威付けになる」
「我々の“嘘”を、敵側の論文で固めさせる、と」
ベレゾフスカヤは呆れたように、しかしどこか楽しそうに言った。
「嘘じゃない」
ヴォルコフが穏やかに首を振った。
「我々が、先に結果を出す。ただそれだけだ」
その時、机の端で、暗号化された古い携帯端末が短く震えた。
パーヴェルが画面をちらりと見て、口の端を吊り上げた。
「…アルノーからです。『非公式な安全基準に関する意見交換』の打診が。場所はESA本部の、窓のない小部屋。そこのコーヒーは、相変わらずひどく不味い、だそうです」
「行け」
ヴォルコフは即答した。
「厨房の裏口から入って、議論のまな板と、交渉の包丁は、こっちで用意したものを置いてこい」
パーヴェルは頷き、ポケットからミントガムを取り出した。
「長官。“最初の溶解”、本気で来年の夏には間に合わせる気で?」
「間に合わせる。夏は、政治のための季節だ」
ヴォルコフは、パーヴェルからガムを受け取り、銀紙を破った。
口の中に、薄いミントの味が広がる。
「それに――」
彼は、ホワイトボードに書かれた敵の戦略を、静かに見据えた。
「金属には、嘘を押し込めないんだ」
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