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静かな警報

2010年3月、ワシントンD.C.。

NASA本庁の窓のない会議室は、まるで潜水艦の司令室のように静まり返っていた。

壁に埋め込まれたスクリーンの真ん中に、一枚の紙がテープで無造作に貼られている。

太い黒マジックで殴り書きされた数字。


$4,500 / kg


それは、ロシアがパリで高らかに宣言した、月面への輸送コスト。

ここにいる誰もが、その数字が自分たちの五カ年計画――いや、アメリカの宇宙開発の未来そのものに突きつけられた、死亡診断書であることを理解していた。


「まず、どこから火が出ているかを確認しよう」


NASA長官チャールズ・ボレンスが、静かに、しかし重く口火を切った。

その声は、かつてスペースシャトルのコマンダーとして発した号令とは全く違う、地の底から響くような響きを持っていた。


「火元は三つだ。第一に、我々の宇宙へのアクセス。第二に、それを支える産業基盤。第三に、このゲームを支配する国際政治。どれか一つでも消し損ねれば、我々は窒息する」


ロリ・ガーバル副長官が、手元の分厚いファイルをめくる。

その紙の擦れる音だけが、やけに大きく聞こえた。


「シャトルは来年で退役。商業型ロケット開発はロシアの価格攻勢の前に立ち往生し、SSTOは夢物語、ボーイングのCST-100も手をつけたばかりです。

現状、国際宇宙ステーション(ISS)へ行くには、ロシアのソコルを使うしかない。

しかし、その座席料は、すでに我々の足元を見て値上げが始まっています」


有人宇宙探査部門を率いるビル・ガステンバーグが、苦々しく首を振る。


「問題は金だけじゃない。ソコルは軍事技術のブラックボックスで、我々はそれに適合する宇宙服すら持っていない。

シャトル時代のスーツを急造で改造しても、ロシア側の認証がなければ宇宙飛行士を乗せることはできない。

ISSに星条旗を掲げ続けること自体が、今や風前の灯火だ」


「議会は『月に安いフェリーが出たのに、なぜ我々が今さら巨大なロケットを作る必要があるのか』と言うだろう」


大統領科学顧問室から派遣された担当官が、冷たい事実を告げた。

「安全保障に直結しない、巨大な国旗を立てるだけのプロジェクトに、今のワシントンは一銭も出さない」


ボレンスは、パリでの発表会の録画を無言で止め、ホワイトボードへ歩み寄った。

そして、三つの歪んだ円を描く。

地球、月、そしてその間に浮かぶ、忌々しいロシアの軌道工場『OD-2』。


「諸君は、まだ彼らの手品を誤解している」


ボレンスは、ペン先でOD-2を突き刺すように指した。


「ロシアは、我々に『月へ行く安い船』を売っているのではない。

彼らが売っているのは、その船の切符を未来永劫、自分たちの言い値で発行し続けることができる、唯一の『印刷機』だ。

これは価格競争などではない。宇宙という新しい大陸の、交通インフラを巡る支配権争いだ」


司令室に、重い沈黙が落ちた。

誰もが、その圧倒的な現実をようやく直視した。


やがてボレンスは、短く息を吐いた。

その瞳には、絶望ではなく、闘争の光が宿っていた。


「だが、やり返す手は、ある。

彼らが作った盤面の上で戦う必要はない。

我々は、盤面の外で勝つ」


ガーバルが、その言葉を待っていたかのように、全員に数枚の紙束を配った。

表紙には、青いスタンプで、こう印字されている。


『90 DAYS』


「まず、最小限の有人アクセスを、90日で確保する」

ガーバルは言った。

「ボーイングのCST-100と、実績のあるアトラスVロケットに、全ての予算を一点集中させる。

当面はISSの『救命ボート』としての機能だけでもいい。

とにかく、アメリカの地から、アメリカの宇宙船で、人間を宇宙へ送るという生命線を、絶対に途絶えさせない」


ガステンバーグが、その計画を引き継ぐ。


「同時に、我々はロシアとは全く違う『もう一本の幹線道路』を宇宙に建設する。

鍵は、燃料だ。LEO(地球低軌道)に、巨大なガソリンスタンド――つまり、推進剤のデポ(貯蔵基地)を建設する。

そして、高出力のイオンエンジンを積んだタグボートで、そこから月まで、何度も貨物を往復させる。

ロシアが巨大なロケットを一発打ち上げるのと同じ量の物資を、我々は小型ロケットと宇宙のガソリンスタンドを使って、より安く、より柔軟に運んでみせる。

彼らの『一括払いのフェリー』に対し、我々は『燃費のいい長距離トラック輸送網』で対抗する」


それは、ロシアの巨大な力に対し、アメリカが最も得意とする、柔軟なシステムとネットワークで挑むという、非対称な反撃計画だった。


「そして、その道路の全ての交差点と港に、我々のルールを先に打ち込む」


科学顧問室の担当官が続けた。

「月の周回軌道に、どんなに小さくてもいいから、我々の『港』――つまり、ドッキング標準規格を備えた宇宙ステーションの基盤を先に設置する。

そして、その港に接続するためのルール……コネクタの規格、通信プロトコル、安全基準……その全てを、ESAやJAXAを巻き込んで、国際標準として公開する。

ロシアが我々の港を使いたければ、我々のルールに従うしかない。

これは、法と規格を使った、新しい形の包囲網だ」


特許、国連、安全基準、世論。

ありとあらゆる「盤面の外」の武器を使い、ロシアの独走に足枷をはめ、時間を稼ぐ。

その間に、自分たちの新しいインフラを完成させる。


ボレンスは、忌々しい『$4,500』の貼り紙を剥がし、裏返してボードに貼り直した。

そして、その真っ白な裏面に、太く、三つの単語だけを書き込んだ。


FUEL.(燃料)

PORT.(港)

RULES.(規則)


「これが、我々の新しい地図だ。壮大な旗ではない。だが、決して負けないための地図だ」


会議が解散に移る直前、ガステンバーグが立ち止まり、薄く笑った。


「ソコルが無ければ、我々は自分たちの吸うべき空気も、自分たちで作るしかない、ということか」


彼は、部屋にいる全員の顔を見回した。

「結構だ。その方が、息は長く保つ」


廊下の向こうで、広報部のプリンターが、メディア向けの発表資料を刷り上げる、乾いた音が聞こえていた。

その地味な紙束の表題には、こう記されていた。


『月回廊の安全と標準化 ― 米国の新ロードマップ』


その言葉に、華々しさはない。

だが、反撃の刃は、確かにそこで、静かに研がれ始めていた。

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