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盤面の外

講堂の最前列。ESA宇宙輸送部門副長官ジャン=ピエール・アルノーは、万雷の拍手と熱狂的な喧騒から逃れるように、手元のメモに視線を落としていた。

だが、その白い紙の上には、彼が先ほど震える手で書きなぐった、一つの数字しか存在しなかった。


$4,500 / kg


インクが滲み、まるで血の痕のように見えた。


隣に座るESAの財務部長ディーターは、ネクタイを緩めながら天を仰いでいる。

その後ろでは、推進技術部門の幹部であるイザベルが、血の気の引いた顔で同僚と何かを囁き合っていた。

彼らの唇の動きだけで、その絶望的な会話の内容が読み取れた。


『不可能だ』

『だが、あのインゴットは本物だった』

『どうやってESD(静電放電)を…』


そうだ、とアルノーは思った。

これはもはや「競争」ではない。

相手が圧倒的に有利だとか、我々が劣っているとか、そういう次元の話ではないのだ。


これは、「絶滅」だ。


我々がチェス盤の上で駒の動かし方を議論している間に、ロシアは、その盤そのものを宇宙の彼方へ持ち去ってしまったのだ。

我々がこれから投資する数十億ユーロの研究開発費は、全て、歴史博物館に飾るための、美しい模型を作るための予算に変わってしまった。


「…すぐに席を確保しよう」

ディーターが、呻くように言った。


「理事会に緊急提言を。我々はアリアン計画の予算を即時凍結し、ロシアの『ヴォストーク級』の優先搭乗権を確保すべきだ、と。手遅れになる前に」


「正気、ディーター!」

イザベルが鋭く反論した。


「あの数字は嘘よ! 月面電力単価も、小天体の貴金属含有率も、全てが希望的観測に基づいた詐欺だわ! あんなものに、欧州の宇宙開発の未来を委ねるというの!?」


「ではどうしろと!? イザベル!」

ディーターの声が上ずる。


「あの嘘を、我々に暴く手段があるかね!? 各国の首脳は、あの甘い数字に飛びつくだろう! 不況対策と未来への投資という、最高の言い訳ができたのだからな! 我々が『あれは嘘だ』と叫んでいる間に、席は全て埋まってしまうぞ!」


二人の激論が、アルノーの耳を通り抜けていく。


(…違う。二人とも、まだ見えていない)


アルノーは、ゆっくりと立ち上がった。

「会議室へ行こう。ここで話す内容ではない」


窓のない、無機質な小部屋。

先ほどの華やかな講堂とは別世界の、冷たい空気が三人を包んでいた。


「君たちは、まだヴォルコフの手の内を誤解している」

アルノーは、乾いた唇を舐めて言った。


「彼のプレゼンの本質は、月への輸送コストがいくらになるか、ではない。あの数字が、嘘か真実かも、もはや問題ですらない」


彼は、部屋のホワイトボードに、ペンで単純な図を描いた。

地球と、月と、そしてその間に浮かぶ『OD-2』。

あの、ヴォルコフが華々しく発表した純白の工場群。


「我々が『月へ行くための船』の設計図に気を取られている間に、彼は、その船を『建造するための工場』を、我々の頭上に作り上げる気だ。

二年前にISSでわざとらしい失敗を見せたのも、今日、あの完璧なインゴットを誇らしげに見せつけたのも、全てはこのための布石だ」


アルノーは、ディーターとイザベルの目を、一人ずつ見据えた。


「彼が今日、世界中に売りつけたのは、月への片道切符ではない。

その切符を、未来永劫、発行し続けることができる、唯一の『印刷機』そのものだ。

そして最悪なことに、我々はその印刷機の部品の一部を、友好の証として、喜んで彼らに提供してしまったのだ」


二人が、息を呑む音が聞こえた。

ようやく、彼らも気づいたのだ。

このゲームの、真のルールに。


「…我々には、選択肢がない、ということ?」

イザベルが、か細い声で言った。


「ああ」

アルノーは頷いた。


「我々は、ロシアの船に乗るしかない。それも、乗客としてではない。船の厨房でジャガイモの皮を剥く、下働きのコックとして、だ」


その時、会議室のドアがノックされた。

秘書が、青い顔で顔を出す。


「…副長官。ロシアのソクーロフ副首相と、ヴォルコフ長官が、お帰りのようです。一度ご挨拶を…」


廊下に出ると、ちょうど二人が護衛と共にこちらへ歩いてくるところだった。

ソクーロフは、いまだ興奮冷めやらぬ各国の要人たちに、にこやかに手を振っている。

その数歩後ろを歩くヴォルコフの表情は、能面のように何も読み取れない。


すれ違う、その一瞬。

ヴォルコフが、ふと、アルノーにだけ分かるように、わずかに視線を向けた。


その瞳に、嘲笑や憐れみの色はなかった。

それは、チェスのグランドマスターが、十手前に詰んでいたことにようやく気づいた相手に向ける、静かな、そして底知れないほどの確信に満ちた眼差しだった。


勝利を誇るのではない。

ただ、世界の理が、自分の描いた設計図通りに書き換わったという、絶対的な事実を、静かに確認するだけの、神の視点。


アルノーは、その視線に射抜かれたまま、動けなかった。


背後で、ディーターが携帯電話を取り出し、秘書に連絡を入れ始めた。

その声は、震えていた。


「…ああ、私だ。緊急理事会の招集を要請しろ。議題は、『対ロシア宇宙戦略の、全面的見直しについて』だ…」

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