ヴォストーク
2010年3月、パリ。ESA本部大講堂。OD-1記念式典
OD-1の正式稼働を祝う式典の空気は、ヴォルコフがスクリーンに映し出した一枚のスライドによって、祝祭から戦慄へと一変していた。
「我々は、この船を『ヴォストーク級』と呼んでいます」
ヴォルコフは、スクリーンに映る巨船を、まるで我が子を紹介するように誇らしげに語り始めた。
「皆様が考えておられるような、カプセルを打ち上げるだけのロケットではありません。これは、地球と月、そしていずれは火星とを結ぶ、大型の有人往還船です 。OD-2のシップヤードで建造され 、宇宙で採掘した資源を燃料とし 、一度に数十名のクルーと貨物を運ぶ 、真の『宇宙船』です」
講堂は、完全な沈黙に支配された。
頭を殴られるような、という表現ですら生ぬるい。
彼らは、自分たちが立っている地面そのものが、足元から崩れ去るような感覚に襲われていた。
欧州各国が地上で、必死に既存のロケットを改良している間に、ロシアは宇宙で、天体間輸送網を敷設する計画を発表したのだ。
「我々が目指しているのは、月へ“行く”ことではありません」
ヴォルコフは、とどめを刺した。
「月を、次の世界の『港』にすることです。その港から、火星へ、そして、その先へ。この船は、そのための最初の定期便なのです」
そしてヴォルコフは、このプレゼンテーションの真の目的を、刃のように突きつけた。
月と地球、月と火星を往復する、完全再使用型の大型往還船『ヴォストーク級』。
恐るべきコスト計算を。
スクリーンに比較チャートが映し出される。
従来方式では、月面に20トンの貨物を運ぶのに、一回あたり4億5000万ドルかかる。
それはアポロ計画のサターン型ロケットから半世紀、その間の技術進歩の証明だった。
それが、ロシアの新しい軌道工場OD-2でヴォストークを生産すれば、1億5000万ドルになる――
3分の1。これは、常識を破壊する数字だ。だが、ヴォルコフはそこで止めなかった。
「これらの試算は、控えめなものです。我々の最新の探査データと、月面におけるエネルギー革命を前提とするならば、コストはさらに圧縮される」
彼は、この日のために用意した、最も美しく、そして最も悪質な「嘘」を、静かにスクリーンに投映した。
前提A:我々が捕捉した特定の小惑星は、極めて高純度の白金族金属を含有している。
前提B:月面極地の永久影に眠る膨大な氷と、永久日照がもたらす無限の太陽光。
この二つを組み合わせれば、月面での電力単価は、地球上のそれよりも安くなる。
スクリーンに、最終的な数字が叩きつけられた。
一往復あたり、9000万ドル。
月面への輸送コスト、1kgあたり4,500ドル。
講堂は、水を打ったように静まり返った。
それは熱狂や興奮の静寂ではない。
自分たちの知る物理法則と経済原則が、目の前で否定されたことに対する、畏怖と敗北の沈黙だった。
スクリーンの片隅で、前提AとBの根拠を示す小さなアスタリスク(※)が、嘲笑うように明滅している。
(どちらも、あの未来メールの裏付けがなければ、ただの願望だ。だが、OD-2を先に建ててしまえば、この嘘は、いずれ必ず真実になる)
そして静寂は、沸騰へと転じる。質問が嵐のように飛んだ。
「白金族の含有率が、都合良く高すぎる!」
「電力単価の根拠が不明瞭だ!」
ヴォルコフは、その全てを揺るぎない態度で受け止め、そして、巧みに逸らした。
「含有率のデータは、優先的なパートナーにのみ開示します」
「電力単価の詳細は、ぜひESAとの共同ワーキンググループで議論したい」
最後に、ソクーロフが前に出て、その混乱を政治の言葉で収拾した。
「我々は、この『月へのフェリー』を、国際社会と共に運航する。座席も、貨物室も、常に欧州の友人のために空けておくことを約束しましょう」
それは、拒否できない提案だった。
この圧倒的なコスト差の前では、欧州はロシアの船に乗る以外の選択肢を失ったのだ。
袖に戻ると、ソクーロフがヴォルコフの耳元で、低く笑った。
「二つだけ、綺麗な嘘をついたな、セルゲイ」
「三つです、副首相閣下。白金族の平均値、電力単価、それとOD-2の処理能力も、少しだけ水増ししてあります」
「……そうか、三つか」
ソクーロフは面白そうに頷いた。
「それで、君の描く勝ち筋は?」
「単純です。OD-2を、世界が口を挟む前に完成させる。設備が回り始めれば、今日の嘘は全て、過去の『控えめな見積もり誤差』に変わります」
ソクーロフの、レンズの奥の目が怜悧に光る。
「六月の選挙、今日のパリの空気は、我々にとって追い風になるだろう。君の『月フェリー』、我が党の公約の看板として、ありがたく使わせてもらうぞ」
「どうぞ。華は、政治家であるあなたのものですから」
「そして、刃は君が振るえ」
「もちろんです」
退席後、講堂の外は冷たい冬の雨がぱらついていた。
自宅の玄関で感じた、あの孤独な冷気と同じ温度。
だが、匂いが違う。
ヴォルコフは一度だけパリの空を見上げ、ポケットからミントガムを取り出した。
銀紙を破る、乾いた音。
口の中に広がる、薄いミントの味。
今この瞬間、それが酒の味ではないという、ただそれだけの事実を、彼は自分の小さな勝利とすることにした。