法の目の男
ロシアの姓名の呼び方に関して補足)
今回出ている"名前+父称"は公的な場で話しかけるときの堅い呼び方です。
2010年3月、パリ。
冬の陽光が、厚い曇天をようやく透かし、凍りかけたセーヌ川の鉛色の水面に、白い光の破片を散らしていた。
OD-1計画の稼働記念式典が開催されるESA本部大講堂の控室は、どの国の言語が飛び交っているのかも分からないほど、華やかで空虚な喧騒に包まれていた。
「セルゲイ・アンドレイェヴィチ、こちらへ」
人混みをかき分けるようにして声をかけてきたのは、第一副首相スタニスラフ・ソクーロフだった。
寸分の狂いもなく仕立てられた黒いスーツのライン、ワイシャツの白さ、そして知的な面差しを引き締める、結び目の小さいネクタイ。
その全てが、彼の経歴であるサンクトペテルブルク大学法学部首席という肩書を、無言のうちに証明しているかのようだった。
閣僚会議や契約交渉の場で、何度か顔を合わせたことはある。
だが、ヴォルコフは、この男の内面を読み切れたと感じたことは一度もなかった。
その微笑みは常に柔らかく、物腰は紳士的だ。
しかし、そのレンズの奥の瞳は、まるで法廷で証拠を吟味するように、常に相手の反応を冷静に計算し、分析している微細な動きがあった。
「本日はご足労いただき、誠に光栄です、副首相閣下」
ヴォルコフは、自分はあくまで国家に仕える技術官僚、相手は次期政権を担うナンバー2であるという立場をわきまえ、完璧な敬語で応じた。
ソクーロフは短く頷くと、周囲に聞かせるための社交的な笑みを保ったまま、そっとヴォルコフの耳元に口を寄せた。
「例の“将来計画”――あなたがペトロフ大統領と進めている、あの壮大な未来図のことですよ。その計画が生み出すであろう国家歳入の試算、その一部は、私も大統領から共有されています。ただ、その全体像は……どうやら、極めて限られた人間しか知らないようですね」
囁き声とは裏腹に、その瞬間だけ、彼の目が氷のように冷たく光った。
ヴォルコフは息を止める。
なるほど、これが噂に聞く、かつて法廷で数々の国営企業の不正を暴き、相手を沈黙させてきたという“検察官の目”か。
「……ええ。適切な時が来れば、全ての情報は開示されます」
「その“適切な時”は、政治の都合とも密接に関係してくるでしょう」
ソクーロフは、ヴォルコフの防御的な答えを意に介さず続けた。
「六月以降、私がこの国の舵取りを始めることを考えれば、なおさらです」
六月。ロシア大統領選挙。
あまりにもさらりと、しかし確信を持って織り込まれたその言葉に、ヴォルコフは一瞬、思考の速度を上げた。
この男は、すでに自分が次期大統領になることを前提に、全ての駒を動かしている。
「ドイツからの視察団も、計画には極めて良い感触を示していました。あなたがこの驚異的な開発ペースを維持してくれれば、我々は――次期政権は、堂々と、そして強力に、未来を語ることができる」
その口元は笑っている。
だが、目だけは、難解な契約書の条文を読み上げる弁護士のように、相手の反応を一字一句たりとも見逃すまいとする、鋭い光を宿していた。
式典の開幕を告げるベルが鳴り、控室の空気が一段と華やいだ。
ソクーロフが、ヴォルコフの肩に親しげに手を置く。
その瞬間、ヴォルコフは張り詰めていた緊張の糸をふっと緩め、まるで長年の友人に言うかのように、呟いた。
「……スタニスラフ・ミハイロヴィチ。あなたは、怖い人だ」
その言葉に、ソクーロフは初めて、計算ではない、本心からの笑みを浮かべた。
「君ほどじゃないさ、セルゲイ」
ふたりは一瞬だけ、共犯者のように視線を交わし、そして、何事もなかったかのように、それぞれの役割を演じるために、雑踏の中へと戻っていった。
嵐のようなペトロフの時代が終わり、法の目の男が、静かにその盤上を引き継ごうとしていた。
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