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盤上の駒

ペトロフは、目を閉じたまま、長い間動かなかった。

ヴォルコフの最後の言葉が、罵倒の刃となって突き刺さったまま、時が凍りついたようだった。


重い沈黙が、ヴォルコフの呼吸を止める。

やがて、ペトロフは短く、そして深く息を吐いた。


「……わかった」


たった一言。


だが、その声には先ほどまでの権力者の圧も、試すような響きも消え、まるで嵐が過ぎ去った後の凪のような、静かな決定の響きだけがあった。


彼は目を開くと、視線を机上の書類に向け、ヴォルコフが持参した草案を、まるで先ほどの会話など存在しなかったかのように、手早くめくり始めた。


数秒前まで国家の未来と自らの進退を巡る、魂を削るような対話の只中にいたはずのヴォルコフは、そのあまりに速い切り替えに、あっけにとられて立ち尽くすしかなかった。


「OD-1の制式稼働宣言は、三月に予定されている党の全体会議に合わせる。注目が集まる絶好の機会だ。ただし、式典は簡素にしろ。我々の力は、パレードで見せびらかす必要はない」


ペトロフの指が、次の書類を指し示す。


「小惑星捕獲計画は、表向きESAとJAXAの共同枠組みを利用して、事前合意を取り付けろ。予算は来期に予定されている、旧式潜水艦の廃棄費用を転用する。鉄の鯨を動かす金で、宇宙から鉄を運んでくる。面白いだろう」


ヴォルコフは、ただ頷くことしかできない。

ペトロフの頭脳は、すでに数手先を読み、具体的な指示を弾き出している。


「それと」


ペトロフは顔を上げた。


「来月の欧州歴訪に同行しろ。ベルリンでは、軌道工場の電力供給システムについて、シーメンスと直接話す。君から技術的な裏付けを説明しろ。…ああ、その議事日程の写しを、ソクーロフにも共有しておけ」


ソクーロフ。

その名前に、ヴォルコフは内心で鋭く反応した。

後継者候補の一人として名の挙がる、穏健派で知られる副首相。


なぜ、彼がこの極秘計画のグループに?

ヴォルコフは、混乱を押し殺して静かに頷き、書類を抱えて席を立った。

重い執務室の扉へ向かって歩を進める。


試練は終わった。


そう思った、その時だった。


「セルゲイ」


その背中に、ペトロフの声が投げかけられた。

まるで、今思い出したかのように、さりげない口調で。


「今後の西欧との交渉は、ソクーロフに任せる。君は、彼とよく意見をすりあわせておけ。外交の場で、ロシアの足並みに乱れがあるなどと西側に思わせるな。決して隙を見せてはならん」


ヴォルコフは、扉の前で凍りついた。

全身の血が、脳へと逆流する感覚。


――そういうことだったのか。


この対話は、ペトロフが権力に固執するか否かの瀬戸際などではなかった。

初めから、彼は退くことを考えていた。


集団指導体制への移行も、後継者の育成も、全ては彼の計画通りだったのだ。

では、先ほどのあの問いは。

あの魂の独白のような言葉は。


あれは、ヴォルコフを試すための、最後の、そして最も過酷な試験だったのだ。

この男が、ペトロフ個人のためではなく、真に国家の未来のために、恩人にさえ刃を向けられる覚悟があるのかどうかを。


ヴォルコフは、ゆっくりと振り返り、深く頭を下げた。


「…承知、いたしました」


扉を閉めた後、執務室には再び静寂が戻った。

ペトロフは一人、椅子に深く身を沈めた。


窓の外、氷のモスクワ川が、歴史のようにゆっくりと流れていく。

その顔に浮かんでいたのは、誰も知らない、ごくわずかな、満足気な笑みだった。


ロシアという盤上で最も重要な駒が、今確かに、彼自身の意志を継ぐ者へと成長を遂げたのだ。

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