恩義の刃
肺が、見えない力で圧迫される。
喉が、絞め上げられるように熱い。
ヴォルコフの目の前にいるのは、確かにロシアを泥濘から引き上げ、再び大国として屹立させた政治家だった。
その圧倒的な存在感が、部屋の酸素さえも奪っていくようだった。
視線に耐えかねて、うつむく方がどれだけ楽か。
だが、今ここで視線を逸らせば、ペトロフは二度とヴォルコフを政治的に信頼しないだろう。
それは、戦略家としての死を意味する。
言葉を紡がなければならない。
脳が、かつてないほどの速度で回転を始めていた。
(考えろ。ペトロフの理屈にも、一面の真理はある。権力の継続は、今のロシアに安定と効率をもたらすだろう。国家の顔が変わらないことは、外交上の強力な武器だ…)
だが、と彼の思考のもう半分が冷徹に囁く。
(歴史上、清廉潔白なまま組織を保ち続けた独裁など、ただの一つも存在しない。権力は必ず腐敗する。それは功利主義の観点から見ても、いずれ国家に利益以上の損害をもたらす。この道を進めば、ペトロフ自身の名誉さえも、いずれは汚されることになる…)
その瞬間、ヴォルコフの脳裏に、遠い記憶が鮮やかに蘇った。
1999年の夏。
まだ若く、理想に燃えていたペトロフが、ヴォルコフをロスコスモスの長官代理に選任すると告げた、あの日の鋭い瞳。
あの時のペトロフは、誠実だった。
そして今、この瞬間も。
有無を言わせずヴォルコフを黙らせ、自分の意志を強行することもできたはずだ。
だが、彼はあえて問いかけた。
試しているのだ。
そして、心のどこかで、自分を止めてくれる誰かを求めているのかもしれない。
そのことに思い至り、覚悟が決まった。
ヴォルコフは、乾ききった唇を、意を決して動かした。
「閣下。この私から、今あなたに申し上げることができるのは、ただ一つ」
彼は、ペトロフの目を射抜くように見つめ、続けた。
「あなたの名誉を、後世にわたって保つことです」
それは、人類の未来に対する責任を問われた男の答えとしては、あまりにも個人的で、無責任な言葉に聞こえた。
ペトロフが、訝しげに片眉を上げる。
その反応を待っていたかのように、ヴォルコフは、引き立てられた者として捧げうる、最も鋭利な刃を抜いた。
「そして閣下。我々に、もはや一歩たりとも下がれる場所などありません。私たちが挑むのは、神話に出てくるような巨人です。そこでは、ただの一つの瑕疵すら許されない」
彼は、一歩踏み出した。
その声は静かだが、クレムリンの分厚い壁を貫くほどの意志が込められていた。
「あなたのほんのわずかな緩みが、判断力の些細な衰えが、この国を、そして人類を取り返しのつかない危険に晒す。その可能性を、私は進んで認めることは、断じてできません」
それは最大限の敬意を払った、最大限の罵倒に等しかった。
――あなたはもう、この計画のリスクそのものだ。
ペトロフは、その言葉を真正面から受け止め、ゆっくりとその目を閉じた。
執務室のランプの光が、権力者の顔に、深い影を落としていた。
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