緩衝材
2010年1月、モスクワ。
夜更けのクレムリンは、冬の深い霧に包まれていた。
大統領執務室の灯りは落とされ、ただ窓際に置かれたスタンドのランプだけが、ヴィクトル・ペトロフの広い背中を琥珀色に照らしている。
彼は両腕を組み、眼下に広がる眠らない街を見下ろしていた。
その瞳は、長年の権力闘争の果てに感情の色をほとんど失っているはずなのに、今夜は月光を反射して流れる氷のモスクワ川のように、微かに揺れていた。
「失礼します、大統領閣下」
セルゲイ・ヴォルコフが、分厚い書類の束を抱えて入室した。
OD-1計画の制式稼働宣言案と、次の段階である小天体捕獲による資源確保計画の草案。
だが、数歩進んだところで足を止めた。
ペトロフの纏う空気が、いつもと違う。
鉄のような硬さではなく、まるでガラスのような、張り詰めた脆さを感じさせた。
長い沈黙を破ったのは、ペトロフだった。
「セルゲイ」
背を向けたまま、その声は静かに執務室の闇に響いた。
「憲法によれば、今年で私は大統領の座を降りる必要がある」
彼はゆっくりと続ける。
その言葉一つ一つが、ヴォルコフの神経を試すように、間を置いて発せられた。
「だが…君は本当に、私が降りるべきだと思うか?」
その言葉が、見えない刃のように空気を切り裂いた。
ヴォルコフの脳裏に、瞬時に数え切れないほどの計算が稲妻のように走った。
――民主制というシステム、それは西側への看板であると同時に、国民からの信任だ。
確かに今の支持率からいえば、たやすく再選制限の変更は通るだろう。
――だが、今のロシアの安定は、ペトロフという個人のカリスマに依存しすぎていないか。
――権力の延命は、やがて国家そのものを蝕む怪物を呼び込むのではないか。
――しかし、今この男が降りれば、一体誰がこの複雑怪奇な国家の舵を取れるというのだ。
――そして何より…あの未来メールが示した『別の歴史』。そこには『ウラジーミル』という大統領がいた。ペトロフが権力に固執した時、我々の歴史は、あの未知の混乱へと近づいてしまうのではないか…?
振り返ったペトロフの瞳を覗き込んだ瞬間、ヴォルコフは全てを悟った。
これは、ただの相談ではない。
試されているのだ。
セルゲイ・ヴォルコフが、ペトロフ個人への忠誠を優先する臣下なのか、それとも、国家というシステムそのものの未来に軸足を置く戦略家なのかを。
「……閣下」
ヴォルコフは息を吸い、あえて一歩前に進み出た。
そして、この国で最も危険な男の目を、真っ直ぐに見返した。
「私は、ロシアが揺るがない選択をすべきだと考えます」
ペトロフの口元が、わずかに動いた。
それが冷笑か、諦観か、ヴォルコフには判別がつかない。
「…それはつまり?」
ペトロフの問いに、ヴォルコフは答えた。
その声には、一切の揺らぎはなかった。
「閣下。今、あなたと、そしてロシアは、絶頂を極めつつあります。しかし、高く歩む者ほど、ひとたび躓いた時に立ち上がるのは困難です。その時に必要となるのは、更なる強さや高さではありません」
彼は、慎重に、しかし確信を持って言葉を続けた。
「緩衝材です。どのような衝撃が加わっても、国家という機械が壊れないための、柔軟で、強靭なシステム。それこそが、今我々が未来のために用意すべきものだと、私は考えます」
主語を意図的に省いた、あまりにも曖昧な言葉だった。
それは「法による支配」とも、「民主的な後継者選出プロセス」とも、あるいは「ペトロフ後の集団指導体制」とも解釈できる。
だが、その言葉に込められた意図は、ペトロフには痛いほど正確に伝わっていた。
お前は降りろ、と。
それが、国家のためだ、と。
執務室に、再び沈黙が落ちた。
ペトロフは、ヴォルコフから視線を外し、再び窓の外の夜景に目を向けた。
彼の横顔からは、もはや何の感情も読み取ることはできなかった。
二人の間にあった共犯者としての蜜月は、今、静かに終わりを告げようとしていた。
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