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天を縫う針

2009年7月。


モスクワ時間の深夜、カザフスタンの広大な草原が、一瞬だけ真昼のように白く輝いた。

数秒の静寂の後、地平線の彼方から轟音が渡り、鋼鉄の巨人が天へと駆け上がっていく。

その光景は、もはや日常となっていた。


一週間に二度、時には三度という、常軌を逸した打ち上げ間隔。

それはまるで、天に向かって巨大な構造物を縫い上げる、規則正しい針仕事のようだった。




コロラド州シャイアン・マウンテン。 NORAD(北米航空宇宙防衛司令部)


地下要塞にある巨大スクリーンは、連日、バイコヌールから放たれる赤い航跡で埋め尽くされていた。


「まただ…! 三日前に打ち上げたばかりだぞ!」


ペンタゴンの地下深くにある作戦会議室。

冷え切った空調の中、若い数値解析官が悲鳴に近い声を上げた。

レーザーポインターが指し示す軌道図は、寸分の狂いもなく、先行するロシアの人工物へと吸い寄せられていく。


「目標軌道への投入誤差、0.03度以内。しかも、これが今週二度目です。信じられません」


部屋の隅で腕を組んでいたベテランの技術大佐が、フンと鼻を鳴らした。


「精度だけなら、我々のデルタIVヘビーでも出せる。だが、こんな殺人的なテンポで、どうやって品質を維持している? まるで、工場でソーセージでも作るようにロケットを打ち上げているじゃないか。連中はいったい、何を考えているんだ…」


「長官への報告書は?」


「それが…」解析官は困惑した表情で上官を見上げた。


「ロシア側は外交ルートを通じて、『国際共同事業の推進』『宇宙の平和利用』といった美しい言葉を繰り返すだけです。目的は『各種実験モジュールの軌道上試験』と。過不足なく、しかし決定的に核心を欠いた情報が、霧のように我々の分析を妨げています」




その頃、ヴォルコフはペトロフ大統領と定例の密談を行い、衛星写真一枚にすら写らない、真の計画を着々と進めていた。

アメリカの疑念は、彼の計算通り、確信へと変わる手前で燻り続けていた。




2009年9月 ロスコスモス OD-1管制塔。


OD-1の主骨格が、ついに軌道上で連結を終えた。

全長300メートルを超える、巨大な鋼鉄の脊椎。

それは巨大な反射板のように無慈悲な太陽光を弾き返し、その威容をモニタ越しに目撃したESAとJAXAの派遣技術者たちの表情から、血の気を奪った。


「…マルク、これはもう、デモンストレーター(実証機)じゃないな」


日本の技術者、柴田がかすれた声でそう言った。


地球を背景に浮かぶその人工物は、あまりにも巨大で、あまりにも完成されすぎていた。


「ああ、分かっている」ドイツ人技術者のマルクが、呆然と応じた。


「これは、何かの『工場』の、第一期工事が完了した姿だ。我々は、その建設協力員だったというわけだ」


誰も、その言葉を公式な議事録には残さない。

ただ、本国へ送る定例報告書の行間に、報告すべき事実がないという、濃く、そして重い沈黙だけを滲ませた。




モスクワの官舎で、ヴォルコフはその報告書に目を通した後、再びあの未来メールのファイルを開いた。


日付の数字、赤字で強調されたいくつかの行――タイムリミットは、確実に縮まりつつあった。

彼はペンを取ると、新しいノートの最初のページに、揺るぎない筆跡で見出しを書き始めた。


『OD-1拡張計画・第II期』


軌道上の骨格は、単なる技術的シンボルであってはならない。

実際に資源を加工し、部材を生産する「工場」へと変わらねばならない。


そのための追加モジュール構成、ソコル輸送船のフライトスケジュール、そして天文学的な予算配分…。

夜が明ける頃には、その全てが、骨格を持った計画書として完成していた。




2009年10月〜12月 OD-1試験プラントモジュール。


最初の試運転で、OD-1にドッキングされた小型真空炉が火を入れた。

微小重力下で溶かされたチタン合金が、表面張力によって完璧な銀色の球体を描いて宙に浮遊する。


その神秘的な光景は、地上の制御室にいるコマロフたちに、一瞬だけ自分たちの苦労を忘れさせる静かな感動をもたらした。


だが、その映像と観測データは、受信されたコンマ数秒後には即座に暗号化され、モスクワ郊外にある、高度に隔離された地下の研究所サーバーへと転送されていく。


甘美な果実を、国際的なパートナーたちに味見させる気など、ヴォルコフには毛頭なかった。

ヴォルコフは成果を確認の上、最終的な内部ロードマップに署名する。


『2010年中に拡張モジュール群の打ち上げ完了。2011年までに、月資源加工を視野に入れた完全稼働体制へ移行』。




2009年の年の瀬。


ペトロフ大統領はクレムリンから、新年に向けた全国放送で高らかに演説した。


「…親愛なるロシア国民よ! 我が国は、21世紀の新たな産業革命の旗手となる! 資源も、未来の技術も、我らがこの軌道を制するのだ!」


テレビの前で、国民は熱狂的な拍手を送った。

その背後で、演説台の脇に立つヴォルコフは、ペトロフが手にする演説原稿の、自分が加えた赤ペンの跡を、ただ静かに見つめていた。


そこには彼だけが知る、国家の時計とは全く違う速度で進む、もっと短く、そして残酷な時計の針が、確かに刻まれている。



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