軌道へ向かう鋼の骨格
2009年1月 モスクワ クレムリン。
外はまだ深い冬の雪に覆われていたが、クレムリンの大会議室の空気は、国家の意志という見えない熱で、灼けるように熱かった。
ペトロフ大統領は、机上に置かれた『オルビトゥム・デモンストレーター(OD-1)計画』と記された分厚いフォルダを、ゆっくりと閉じる。
軍の将官から各省庁の大臣まで、居並ぶロシアの中枢を睥睨した。
「本日この瞬間をもって、OD-1計画を国家最優先事業として発動する。全ての省庁は、ロスコスモスの要請に、国防案件と同等の優先度で応じることとする」
その言葉は、いかなる反論も許さない絶対的な響きを持っていた。
賛成も、反対もない。
この部屋にいる者たちはただ、ロシアという国家が、地上での駆け引きから完全に手を引き、その全ての政治的リソースを宇宙の一点へと傾けるという、歴史的な現実を理解した。
その沈黙の中心で、ヴォルコフは静かに目を伏せていた。
同月 モスクワ郊外 ジュコーフスキー航空工学研究所。
その場所は、かつてプロジェクト『ソコル』を生み出したことから、技術者たちの間で、愛情と皮肉を込めて『鷹の巣』と呼ばれていた。
しかし今、その巣は、不眠不休で働く者たちの熱気と疲労で、まるで溶鉱炉のようだった。
「あの悪魔め…! 俺たちをいつ殺す気だ!」
設計主任のコマロフ技師が、三日連続で着ているであろう、よれた作業着のまま、唸るように悪態をつく。彼の目の前には、冷めきって黒い液体と化したコーヒーと、各国の仕様が入り乱れる設計図の山。
「ソコルが完成した時、一週間でいいから家族とダーチャで過ごしたいと夢見ていたのが、まるで昨日のことのようだ…」
「文句を言っても手は動かさないと、長官にウォッカを全部抜かれますよ、ドミトリー」
推進システム専門家のベレゾフスカヤが、青白い顔に無理やり笑みを浮かべて応じた。
彼女もまた、この数週間で五歳は老け込んだように見えた。
彼らは馬車馬のように働かされていた。
ソコルを完成させた英雄たちは、一息つく間もなく、OD-1という、さらに複雑で巨大なパズルの前に引きずり出されたのだ。
だが、コマロフは悪態をつきながらも、その指を設計端末のキーボードの上で正確に踊らせていた。
「日本のこの駆動系は、確かに絹のように滑らかだ。だが、繊細すぎて宇宙の放射線一発で止まりかねん。だから、あえて三重の物理的なフェイルセーフ機構を追加してやった。これで、少々壊れても動き続ける、『カラシニコフのようなロボットアーム』になっただろう!」
ベレゾフスカヤも、モニターを指差す。
「ESAのこのセンサーは高性能だけど、我々の衛星バス(本体)とは信号プロトコルが違いすぎますよ。というわけで、制御ソフトウェアの根幹部分を、私たちが一から書き換えて、無理やり『ロシア語を話す』ように教育してやりましたよ!」
ここにいる誰もが、ヴォルコフを人でなしの悪魔だと罵っていた。
しかし、その顔には不思議な高揚感が浮かんでいた。
彼らは、未来の設計図をただなぞっているのではない。
アメリカの電子頭脳、日本の繊細な手足、欧州の鋭敏な五感――世界中から集められた最高の『臓器』を、ロシア流の『頑丈で、何があっても止まらない』という思想で強引に繋ぎ合わせ、一つの生命体へと組み上げていく。
この無茶苦茶な手術を成功させられるのは、世界で自分たちだけだという自負が、彼らを支えていた。
未来の技術を、この時代の現実へと翻訳し、実装する――それこそが、ソコル開発を通してロスコスモスが手に入れた真の力だった。
5月〜6月 軌道上。
コマロフたちが地上で血反吐を吐きながら組み上げた鋼鉄の骨格は、ソコルによって、週に一度という異常なペースでバイコヌールの空へと打ち上げられていった。
ISSに滞在中のロシア人飛行士、アンドレイ・ソロキンは、窓の外で自律的にドッキングしていくOD-1の巨大なモジュール群を見て、思わず息を呑んだ。
「おい、地上管制…あれは、本当に『試験機』なのか? まるで、戦艦の竜骨じゃないか…」
「…試験機、という名前の完成品さ」
地上の管制官が、ぼそりとそう呟き、すぐに回線を切った。
8月 モスクワ ロスコスモス本部。
パーヴェルが、最新の進捗報告書をヴォルコフの机に置いた。
「軌道上における基本骨格構造の七五%が連結完了。予定より三ヶ月早い、驚異的なペースです。現場の悲鳴は聞こえてきますが、彼らは…楽しんでいるようでもあります」
「結構だ」
ヴォルコフは頷き、窓の外の雲海を見やった。
その視線は、コマロフたちが苦闘する地上でも、組み上がりつつある軌道上の骨格でもなく、さらにその先の、まだ誰も見たことのない未来へと向けられていた。
(間に合う。この速度なら…まだ、間に合う)
更新の励みになります。ブクマ・感想・評価いただけると嬉しいです。