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嵐のあと

2008年9月15日 ニューヨーク。

ウォール街の朝は、例年ならば秋の乾いた空気と、野心に満ちたトレーダーたちの喧騒で始まるはずだった。

しかしその日は、夜明け前から世界中のテレビ中継車がバリケードを築き、空には報道ヘリが不吉な蜂のように群がっていた。


誰もが、投資銀行リーマン・ブラザーズの破綻という、歴史的な金融カタストロフの瞬間を固唾をのんで待っていた。


午前9時30分。

取引開始のベルが鳴り響く直前、ニューヨーク証券取引所の巨大な電子掲示板に、世界が息を呑む速報が流れた。


『リーマン・ブラザーズ、国際コンソーシアムによる買収で基本合意』


本来この日、この場所で、絶望的な売り注文の嵐に巻き込まれ、狂乱状態に陥るはずだったトレーダーたちは、その文字を理解できずに立ち尽くした。

やがて、その困惑は、じわじわと安堵の吐息へと変わっていった。


前夜、FRBと米財務省は、ロンドンのバークレイズ、アブダビとカタールの政府系ファンド、そして日本の三菱UFJフィナンシャル・グループを中心とした異例の国際事業体コンソーシアムによる救済スキームを承認したのだ。


リーマンが抱える毒(サブプライム関連証券)の大部分は、ペトロフの「助言」通りに設立された「政府保証付き不良資産受け皿機関」に隔離され、残る優良資産は新生銀行として再出発する。


市場は大揺れに揺れた。

しかし、それは制御不能な恐慌ではなく、多重衝突事故の処理現場のような、混乱はしているがコントロールされた「大きな事故」として処理された。



同日、東京。

昼のニュース番組で、経済キャスターが、まだ信じられないといった表情ながらも、安堵の笑みを浮かべていた。


「世界同時株安は避けられませんでしたが、専門家の予測を大幅に下回り、日経平均株価の下げ幅は3%程度にとどまりました」


史実では600円以上も暴落したはずの株価。

しかし、ペトロフの警告を受けてFRBと事前に連携した日銀が、大規模な米ドル・円の通貨スワップ協定を発動。

日本のメガバンクが陥るはずだった短期ドル資金の枯渇は、瀬戸際で回避されていた。



同日、モスクワ。

クレムリンの執務室で、ペトロフとヴォルコフが、壁に埋め込まれた巨大なスクリーンで、世界の市場の混乱を静かに眺めていた。


「熱帯低気圧で済んだな」


ペトロフは、テーブルに置かれたグラスの水を一口飲み、呟いた。


「はい。しかし、世界中の政府はまだ震えています。失業対策、景気浮揚策…その全ての言い訳として、『未来への投資』という、耳触りの良い看板が必要になるでしょう」


ヴォルコフの指が、机上に広げられた一枚の青写真を、とん、と軽く叩いた。

それは、技術実証衛星OD-1の詳細なモジュール配置図だった。


「これから先、各国はこの“宇宙工場”計画を、自国の産業を不況から救うための、輝かしい復興のシンボルに仕立て上げるはずです。我々が頼むまでもなく、彼ら自身が」


数ヶ月後。ドイツ・ベルリン。

シーメンス本社の会議室では、電力制御部門の技術者たちが熱のこもった議論を交わしていた。

ホワイトボードには、OD-1に搭載する高耐圧パワーモジュールの新しい設計案が書き込まれている。


政府がこの事業を「グリーン・ニューディール政策」と「先端技術分野における雇用創出プログラム」の目玉として承認し、巨額の補助金を約束したからだ。

為替が安定している今のうちに、量産体制へと移行する。

彼らの目には、不況を乗り越えるための希望の光が見えていた。



同日。日本・筑波宇宙センター。

JAXAの巨大なクリーンルームで、純白の作業着に身を包んだ技術者が、組み立て中のロボットアームの先端に、そっと手を触れた。


「これが、宇宙で人間の代わりになる、我々人類の『手』だ」


誰に言うでもなく呟きながら、アーム関節部の微振動制御センサーの最終調整を行う。

資金は潤沢だった。

経済産業省が、悪化する雇用情勢への対策費を、日本の技術力の粋を集めたこの宇宙産業へと重点的に振り向けたからだ。


同日、ワシントンD.C. 連邦準備制度理事会(FRB)本部

FRB議長が、会議室でモニターに映るTEDスプレッド(銀行間金利の信用リスク指標)のチャートを見つめていた。

指標は上昇したが、史実のような垂直的な跳ね上がりはない。

インターバンク市場は、致命的な心停止を免れ、まだかろうじて息をしていた。


「…まるで誰かが、この嵐の進路を、事前に知っていたかのようだ」


隣に立つニューヨーク連銀総裁が、低く呟いた。

議長の脳裏に、数ヶ月前にこの部屋を訪れた、あのロシア人経済顧問ヤルツィンの感情のない瞳が蘇った。


助けられたという安堵と、手のひらの上で踊らされたという屈辱が、彼の胃を重く締め付けていた。



同日、モスクワ、ロスコスモス本部。

ヴォルコフは、そんな世界の声を聞くことはなかった。

彼の頭の中にあるのは、世界経済の地図ではない。

世界の宇宙産業の勢力図だった。


各国の資金、技術、人材――それらを束ねた見えない網は、未曾有の金融危機という嵐を経てもなお、切れるどころか、より強固に、より太く張り巡らされていた。


「これで、次の段階に移れる」


彼の瞳は、もはや地球の重力圏を、そして各国の利害が渦巻く低軌道すらも越え、その先の、まだ誰も見たことのない漆黒の宇宙へと、静かに向けられていた。



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