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ワシントンの予言者

2008年6月 ワシントンD.C. 連邦準備制度理事会(FRB)本部


大理石の壁が荘厳なこの建物の中は、初夏の陽気とは裏腹に、冷たい緊張感に満ちていた。


FRB議長をはじめとする最高幹部たちが集まる非公式の会合室。

そこにいたのは、ウォール街の銀行家でも、議会の重鎮でもない――一人の、初老のロシア人だった。


彼の名は、イゴール・ヤルツィン。

元ソ連国家計画委員会ゴスプランの幹部であり、現在はペトロフ大統領直属の経済顧問。

資本主義を信奉したことは一度もないが、そのシステムが持つ欠陥を、誰よりも数学的に、そして冷徹に分析できる男だ。


「議長、お時間をいただき感謝します」


ヤルツィンは、抑揚のない声で言った。


「本日は、あなた方の金融システムにおける、ある『構造的欠陥』について、我々の分析結果をお伝えしに来ました」


FRB議長は、露骨に不快な表情を浮かべた。

没落した共産主義国家の官僚に、世界の金融の中心で説教されるなど、屈辱以外の何物でもない。


「ヤルツィン氏、我々の市場は健全です。もし、貴国への経済支援の話なら、ここは適切な場所ではない」


「支援?」


ヤルツィンは、かすかに笑った。


「いいえ、議長。これは、警告です」


彼は傍らの補佐官に合図し、テーブル中央のスクリーンに、一枚のチャートを映し出した。

それは、アメリカ全土の住宅価格と、サブプライムローンの延滞率を重ね合わせたグラフ。

そして、そのデータが導き出す未来の予測曲線。


「あなた方が『AAA』という最高の格付けを与えた、あの複雑な金融商品。我々の分析では、あれは砂上の楼閣です」


ヤルツィンは、スクリーンに表示された一つの数字を指差した。


「90日以内に、それらAAA格付け証券の少なくとも30%が、事実上のデフォルトに陥り、紙屑と化すでしょう」


議長をはじめ、FRBの幹部たちの顔色が変わった。

その数字は、彼らが内部で極秘にシミュレーションし、認めたくないあまり封印していた最悪のシナリオと、不気味なほど一致していたからだ。


「…どこで、このデータを」


「どこで、ではありません、議長」


ヤルツィンは、彼らの動揺を見透かすように言った。


「どうやって、です。あなた方が発明した、この美しい数式。これを、モスクワ大学の私の教え子に解かせただけですよ。驚くべきことに、彼はたった一週間で、このシステムが自己崩壊する臨界点を導き出しました」


その言葉は静かだったが、鋭いナイフのように彼らのプライドを切り刻んだ。


「おかしな話だと思いませんか。我々、時代遅れの計画経済の信奉者ですら、この危機を正確に予測できる。まさか、このシステムの中心にいるあなた方が、これに気づいていないはずがない。……それとも、気づいていながら、政治的な理由で行動できずにいるのですか?」


その指摘は、彼らの痛いところを正確に突いていた。

誰も反論できない。沈黙が、罪の自白のように部屋に満ちる。


やがて、ヤルツィンは「提案」を切り出した。


「ペトロフ大統領からの伝言です。『嵐は避けられない。だが、その被害を最小限に食い止めることはできる』と」


「我々は見返りを求めます。貴方がたFRBが、市場がパニックに陥る9月を待たずして、今すぐ予防的な大規模金融緩和と、不良債権の買い取りを開始すること。世界経済の崩壊は、ロシアにとっても利益になりませんからな」


FRB議長は、唇を噛んだ。

ロシアの――それも大統領の直接介入。前代未聞の内政干渉だ。

しかし、彼らにはもう、この予言者の言葉を信じる以外の選択肢はなかった。


――モスクワ、クレムリン。


ペトロフは、ヤルツィンからの暗号通信を受け、満足げに頷いた。

傍らには、ヴォルコフが静かに控えている。


「嵐は来る。しかし、ハリケーンが熱帯低気圧に変わった」


ペトロフは言った。


「世界は混乱するだろうが、恐慌には至らない。これで、君の計画の次の段階へ進めるな」


「はい、大統領」


ヴォルコフが答える。


「この管理された危機は、我々にとって最大の好機です。各国政府は景気対策に追われることになる。そして、失業対策と未来への投資という、二つの大義名分を同時に満たす事業を、必死で探すことになるでしょう」


ヴォルコフの脳裏には、OD-1計画の、さらにその先の光景が広がっていた。


「我々が提案する『軌道工場』計画は、もはや一企業の民間プロジェクトではなくなります。各国が、国策として資金を注入せざるを得ない、世界規模の『公共事業』へと姿を変えるのです。彼らは、自らの経済を守るために、我々の宇宙開発に、金を注ぎ込み続けることになる」


ペトロフが仕掛けた、金融という名の嵐。

そして、ヴォルコフが用意した、宇宙開発という名の巨大な方舟。


二人のロシア人が描いた脚本通りに、世界は、知らぬ間に、その進路を変えようとしていた。

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