糸を編む者
2008年初夏。
世界経済の空には、まだ誰も気づかない、しかし確実な暗雲が漂い始めていた。
その中で、セルゲイ・ヴォルコフは世界中を飛び回っていた。
彼が編み上げようとしているのは、どんな金融危機が来ようとも決して断ち切られることのない、相互依存という名のセーフティネットであり、同時に、獲物を決して逃さない蜘蛛の巣でもあった。
東京 丸の内・超高層ビルの一室。
窓の外には、緻密な回路基板のように広がる東京の街並み。
ヴォルコフは、日本の宇宙航空研究開発機構(JAXA)の理事と、大手重工業の役員たちを前に、深々と頭を下げていた。
「皆様の精密なロボットアーム技術と、誤差を許さない姿勢制御システム。それこそが、我々の『オルビトゥム・デモンストレーター(OD-1)』計画の、まさに心臓部です」
ヴォルコフは、彼らの自尊心を巧みにくすぐる言葉を選んだ。
「我々ロシア人は、力強く、大きなものを作るのは得意です。しかし、この計画に必要な、神業のような繊細さまでは持ち合わせていない。この宇宙の工場で資材を組み立てる『手』となるのは、日本の技術でなければならないのです。この計画の成否の鍵は、貴国が握っていると言っても過言ではありません」
JAXAの理事は、慎重な表情を崩さなかったが、その目の奥には、かつてアメリカのシャトルに依存していた時代にはなかった、誇りと当事者意識の光が灯っていた。
ベルリン シーメンス本社。
歴史の重みを感じさせる重厚な役員室で、ヴォルコフはOD-1計画の電力制御システムに関する青写真を広げていた。
「ハンス会長」
彼は、旧知の仲であるドイツ産業界の重鎮に、まるで秘密を打ち明けるように声を潜めた。
「この計画で最も重要なのは、信頼性です。メガワット級の太陽光エネルギーを、一瞬の揺らぎもなく制御する『神経系』。これを、貴社の“マイスターシャフト”以外に、一体誰が担えるというのですか?」
「我々は、この計画の『品質保証』という、最も重い十字架を、ドイツの皆様に背負っていただきたいのです」
会長は、青写真に記された要求仕様の厳しさに眉をひそめながらも、その口元には満足げな笑みが浮かんでいた。
シーメンスの技術が、ロシアの壮大な宇宙計画の「最後の砦」となる――その事実は、どんな利益よりも魅力的な響きを持っていた。
ドーハ カタール投資庁。
ガラス張りの摩天楼の最上階。
ヴォルコフは、アラブの伝統衣装に身を包んだ若きファンドマネージャーと向き合っていた。
ここでは、技術の話はしない。
「首長は、石油の次の時代を考えておられる」
ヴォルコフは、砂漠の水平線を見つめながら言った。
「王族の皆様が築かれた莫大な富を、砂上の楼閣で終わらせてはならない。その富を、枯渇することのない、永遠の資産へと転換させる唯一の道が、宇宙〈そら〉にあります」
「この計画は、単なる投資ではありません。貴国が、エネルギーの覇者から、未来そのものの覇者へと生まれ変わるための、最初の株式公開なのです。資金を提供してくださるだけでいい。そして、完成した軌道工場の『優先利用権』という名の、最初の果実を、誰よりも先に手にしてください」
若きファンドマネージャーの瞳が、野心に燃えた。
石油マネーが、未来という名の新しい油田へと、静かに流れ込むことが決まった瞬間だった。
モスクワへの帰路。政府専用機の機内 VIP向け特別室。
パーヴェルが報告書を読み上げた。
「…以上で、OD-1計画に関わる全ての主要コンポーネントと、予算の8割について、海外からの協力と投資の『内諾』が取れました。誰もが、自分が最も重要なピースを握っていると信じています」
ヴォルコフは、窓の外に広がる雲海を見下ろしながら、静かに頷いた。
彼は、各国にジグソーパズルのピースを配った。
そして、どの国にも、それが「角のピース」や「中央の絵柄」といった、最も重要な部分であると信じ込ませた。
しかし、そのパズルの完成図を知っているのは、この地球上で彼一人だけだ。
「これでいい」
ヴォルコフは呟いた。
「彼らはもう、互いに疑心暗鬼になり、互いの動向を牽制し合いながら、この計画という船から降りることはできなくなった。一社が抜ければ、自分が握っていたはずの特権を、憎きライバルに根こそぎ奪われることになるからな」
彼の瞳には、世界中に張り巡らされた、目に見えない無数の糸が見えていた。
技術、資本、そして国家のプライド――それらを複雑に編み上げ、決して解けない結び目を作る。
「もうすぐ嵐が来る、パーヴェル」
ヴォルコフは、忍び寄る世界金融危機の気配を、誰よりも正確に感じ取っていた。
「だが、我々の巣は、どんな嵐にも耐える。なぜなら、巣を構成する一本一本の糸が、互いに支え合い、縛り合っているからだ」
彼は、糸を編む者。
そして、その巣の中心で、静かに獲物がかかるのを待っていた。
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