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小さな工場、最初の一歩

2008年3月 モスクワ ロスコスモス本部・戦略企画室


ISSから送られてきた『泡になった夢』の無惨な分析データは、すでにスクリーンの片隅に追いやられていた。

その中央で今、新たな希望が、冷たい輝きを放っている。


全長約30メートル、白銀のボディを持つ無人衛星。

両翼に広げられた漆黒のソーラーパネルが、まるで猛禽の翼のように見える。

中央には、計画の心臓部である艶消しの円筒形モジュールが鎮座していた。


コードネーム『オルビトゥム・デモンストレーター(OD-1)』。


目的はただ一つ――ISSという窮屈な鳥籠の制約を全て取り払い、本物の宇宙空間、すなわち真空・微小重力・高電界という過酷な環境下で、長尺格子構造材の製造が可能かどうかを検証すること。


軌道工場という壮大な夢を、現実の技術へと変えるための、最初の尖兵だ。


「コスト試算です」


パーヴェルが、無言でホワイトボードの前に立ち、マーカーで淀みなく数字と項目を書き並べていく。それはもはや単なる予算案ではなく、一つの巨大な事業計画そのものだった。


「まず、全体像から。OD-1の総軌道投入質量は約45トン。衛星バス15トン、主目的の冶金モジュールが20トン、残りが推進剤と予備資材です。我々のソコルCの一回の低軌道投入能力が15トンですから、最低でも3回の打ち上げが必要になりますが、マージンも混みで4回と考えましょう」


彼はまず、計画の物理的な規模を示し、それから内訳を書き始めた。


打上げ費用(4回分(内予備1回)+軌道上組立):2億3,500万ドル


衛星ユニット本体(姿勢制御・電源・通信・推進・真空炉回転機構):1億ドル


冶金実験モジュール(UHV真空炉等):2億2,000万ドル


ペイロード試作・地上試験:8,500万ドル


軌道上運用(2年間):7,000万ドル


保険・予備部品・回収カプセル:5,500万ドル


パーヴェルは書き終えた数字の羅列を、黒マーカーで無造作に囲んだ。


合計:約7億6,500万ドル。


「長官」

パーヴェルはヴォルコフに向き直った。

「決して安くはありません。特に衛星バスの価格には、将来の静止軌道(GEO)へのサンプル輸送実験も見据え、比推力3,000秒級のキセノンイオンスラスタと、発電能力20kWを誇る新型のGaAs太陽電池パネルのコストを計上しています。先行投資です」

「また、軌道上運用費は、地上常勤エンジニア6名と分析スタッフ3名のチームを2年間維持するためのものです。彼らの人件費とデータ解析コストが大半を占めます」


その説明は、この計画が決して楽観的な数字の上に成り立っているのではないことを、雄弁に物語っていた。


「そして、我々が最終的に目指す『工場』本体の建設コストに比べれば、これは誤差のようなものです。桁が、最低でも一つは違いますから」


ヴォルコフは、指先でペンを弄びながら、スクリーンに世界地図を呼び出した。

無数の赤い点が、各国の工業都市や研究機関の上に灯る。


「問題は金ではない。いつものことだが、『部品』だ」


彼の言葉と共に、必要な技術リストとその「所在」が、地図上の点と線を結んでいく。


――高効率ソーラーパネル(GaAs多接合セル)

所在:米国(Spectrolab社)/欧州(AZUR Space社)

対策:欧州経由で調達。ESAとの『太陽光発電効率に関する共同実験』という名目を被せ、政治的障壁を回避する。


――大型展開式ミラーの精密駆動システム

所在:日本(IHIエアロスペース)/カナダ(MDA社のアーム制御技術)

対策:技術者を招聘。JAXAの宇宙ステーション実験棟『きぼう』で行う、新しい材料実験への『支援と協力』を口実にする。


――超高真空・表面処理技術(UHV+ALD)

所在:フィンランド(Beneq社)、米国(Cambridge NanoTech社)

対策:大学間の共同研究として潜り込む。基礎研究のデータ交換を隠れ蓑に、量産設計のノウハウを合法的に吸い上げる。


――帯電中和装置プラズマ・コンタクタ

所在:NASAジェット推進研究所(JPL)、ESA

対策:中古品を購入し、分解・研究する。用途廃止になったISSの予備パーツを払い下げさせ、ブラックボックスを白日の下に晒す。


――衛星バス本体(20kW級電力供給能力)

所在:ロシア(エネルギア社、レシェートネフ社が持つ世界最高レベルの技術)

対策:国内で完結。ただし、旧式のヒドラジン推進系は捨て、次世代のキセノンイオンスラスタへ完全転換する。


計画の骨子は、冷徹かつ合理的だった。


ソコルCで三分割して打ち上げたモジュールを、軌道上で小型ロボットアームとLIDARによる自律航法でドッキングさせ、一つの衛星を完成させる。

2年間の運用期間で、アルミリチウム合金とβチタン合金製の梁サンプルを、それぞれ3本ずつ製造する。


うち各1本は質量80kgの再突入カプセルで地上へ回収し、物理的に分析。

各1本は軌道上で破断試験を行い、強度データを得る。

残る各1本は宇宙空間に放置し、熱サイクルや放射線による劣化を長期的に観測する。


そしてその後、フル稼働で"本当の軌道工場"へ資材を供給する役割を担う。


ヴォルコフは、指で机をリズミカルに叩きながら言った。

その音は、新たな詐欺計画の始まりを告げる合図のようだった。


「この計画の名目は、『軌道上における金属加工作業の商業的可能性調査』だ。ガスプロム、ルクオイルといったエネルギー財閥。日本の自動車メーカー。欧州の航空宇宙企業。全員に、『未来の宇宙鉱業への投資』という夢を見させろ。そして、少しずつ金を噛ませるんだ」


パーヴェルが、その言葉を完璧に補足する。

「加えて、ESAと日本を『共同研究者』として公式に名を連ねさせれば、アメリカも文句を言いづらくなる。予算の半分以上は、民間および海外からの協力資金という形で、金の出所を複雑化させます」


スクリーンには、地球儀の上に、各国の国旗と企業ロゴ、そして大学の紋章が、無数の赤い線で結ばれていた。


それはもはや、単なる研究開発計画図ではなかった。

世界中の技術と政治と資本を、知らぬ間に絡め取って自らの糧とする、巨大な蜘蛛の巣の設計図だった。

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