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泡になった夢

2008年2月 国際宇宙ステーション(ISS) ロシア区画モジュール『ゼヴェズダ』


地球は、音もなく窓の外を流れていく。青と白の渦巻くビー玉。

その神々しい光景とは裏腹に、モジュール内は機械の低いハミング音と、張り詰めた静寂に支配されていた。


アンドレイ・ソロキン飛行士は、グローブに覆われた指で、ソコルが運び込んだばかりの銀色のケースを慎重に開けた。


中には、人類の未来を支えるはずの“種”が、ベルベットの緩衝材に鎮座している。

真空自己組立格子材――コードネーム『マテリアルR』。


ヴォルコフ長官はこの極秘実験を、カモフラージュとして「国際材料科学共同研究」という当たり障りのない名称で登録していた。

しかし、これが軌道工場という壮大な構想の、最初の礎石であることを知る者は、地上にも宇宙にもごく一握りしかいない。


「地上管制、こちらゼヴェズダ。装置の設置を開始する」


ソロキンの声は、緊張でわずかに上ずっていた。

無線の向こうから、首席補佐官パーヴェルの、感情を排した短い応答が返ってくる。


「了解した、アンドレイ。加熱シーケンスに入る前に、必ず帯電モニターのゼロ点を確認しろ。繰り返す、必ずだ」


ラックに組み込まれた小型真空チャンバーの中で、カーボンナノチューブの種繊維が、まるで生き物のように静かに伸長を始める。


その周囲に設置されたフィラメント状の加熱源が白く輝き、蒸発させた特殊な軽合金が、淡い金の霧となってチャンバー内を漂い始めた。


予定通りならば、この原子の霧が、精密に制御された電場に沿って自律的に配列し、完璧な三次元格子構造を“育て”ていくはずだった。

宇宙でしか作れない、究極の建材を。


だが――


ピピ、ピピッ。

けたたましい警告音が、静寂を切り裂いた。


「…放電警告、レベル3!」


表示灯が赤く点滅し、チャンバー内に青白い稲妻が走った。


「クソッ、静電気放電(ESD)だ!」


ソロキンが制御パネルの電場カットオフスイッチに拳を叩きつけるように押すが、コンマ数秒遅かった。


原子レベルで組み上げられつつあった繊細な格子の一部が、高電圧に焼かれて黒く炭化する。

制御を失った金の霧は、もはや美しい結晶とはならず、表面張力に引かれて無秩序に凝集し、まるで石鹸水のような醜い泡状の塊になっていく。


モニターに映るその光景は、一つの夢が物理的に崩壊していく瞬間そのものだった。


「地上へ。試料1は致命的な損傷を受け、成長プロセスは完全に停止した」


ソロキンは、自分の心臓の鼓動がやけに大きく聞こえるのを感じながら報告した。

長い、重い沈黙の後、パーヴェルが低く応じた。


「…了解した。帰還便で、その残骸をそのまま送れ。分析する」


ソロキンは、漂い始めたオゾンの焦げ臭い匂いの中で、泡になった夢が収められたチャンバーの蓋を、そっと閉じた。


――数日後 モスクワ ロスコスモス本部。


巨大スクリーンに映し出された試料の残骸は、まるで蜂の巣をハンマーで叩き潰したかのようだった。

規則正しいはずの節点は砕け、格子は歪み、構造全体が泡状の金属欠陥に侵食されている。


ヴォルコフは腕を組み、しばらく黙ってその無惨な光景を眺めていた。

やがて、彼は手にしていた報告書の束を、音を立てて机に叩きつけた。


「ISSの規模では、実験にすらならんということか」


パーヴェルが、手元のメモを見ながら冷静に続ける。


「主因は、チャンバー内の帯電です。小型チャンバーでは発生した静電気を外部に逃がせず、臨界点を超えて放電した。それと、蒸着させた合金の霧に、ごく微量の水分が混入していました。真空ポンプはISSに既存のシステムを流用しましたが、これが性能限界です」


「つまり、作る前に“作る場所”が根本的に足りていない、ということだな」


ヴォルコフの口元に、皮肉な笑みが浮かんだ。


技術班の一人が、その威圧感に怯むように、恐る恐る口を開く。


「…長官。軌道上に本格的な『工場』を設置するには、最低でも――」


技術班の描き出した地図は残酷だった。


地球外から採掘した資源を直接加工できる、大型の真空溶解炉。

太陽光を1メガワット級のエネルギーに集光できる、フットボール場サイズの展開型ミラー群。

そして、数キロメートル四方を覆う、巨大な帯電遮蔽フィールド。


何より、それらの設備を建設し維持管理するための、微小重力下で作業できる数十人規模の人員と、自律型ロボットの拠点が必要、と。


「…それらの『工場を作るための設備』を、まず我々が地球から打ち上げねばなりません」


そんな設備は、NASAですら軌道上に用意していないのは、周知の事実だった。

ヴォルコフは天井を仰ぎ、長く、そして静かに息を吐いた。


「工場を作るための工場、か。エベレストの山頂に摩天楼を建てるどころではない。その山自体を、我々の手で運び上げろという話だな」


会議室にいた誰もが、その比喩の持つ絶望的なスケールに言葉を失った。

しかし、ヴォルコフの瞳の奥には、あの日執務室でアルノーが見たのと同じ、常軌を逸した光が宿っていた。


「やるぞ」


彼は、スクリーンに映る、失敗した泡の塊を睨みつけた。


「まずは、その“山”を積み上げるための、最初の土台からだ」

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