カサンドラの訪問
2007年11月 モスクワ ロスコスモス本部
ジャン=ピエール・アルノーは、セルゲイ・ヴォルコフの執務室の窓から見える、凍てついたモスクワの景色を眺めていた。
ESAの宇宙輸送部門副長官という肩書は、今や彼にとって何の慰めにもならなかった。ジュネーヴでの「平和的協力」という名の武装解除以来、ESAは事実上、ロスコスモスの技術的属国と成り果てていた。
誰もがその現実から目を逸らし、ロシアが提供する安価な打ち上げコストという麻薬に酔いしれている。その中で、彼だけがカサンドラのように警告を発し続け、そして孤立していた。
「アルノー副長官、遠路ようこそ」
背後からかけられた声に、アルノーは振り返った。ヴォルコフが、穏やかな、しかし全てを見透かすような笑みを浮かべて立っている。この男のその表情が、アルノーを苛立たせた。
「ヴォルコフ長官。単刀直入に伺います」
アルノーは、外交儀礼を無視して切り出した。
「あなた方の『ソコル』は、我々の理解を超えている。ESAが提供した技術や部品、それらを組み合わせただけでは、あの性能は絶対に達成できない。あなたは、一体何を隠しているのです?」
ヴォルコフは、少し驚いたように眉を上げた後、くすりと笑った。
「隠す? 何も隠してはいませんよ、アルノー副長官。我々は、君たちが共有してくれた素晴らしい知識を、ただ効率的に『学習』しただけだ。君たちが、ルネサンスの絵画を美術館に飾って眺めている間に、我々は、その画法を学び、工房で新しい作品を描き始めた。ただ、それだけの違いです」
その答えは、アルノーの疑念をさらに深いものにした。これは、単なる技術格差の話ではない。思想、哲学、目指している未来そのものが、根本的に違う。
「我々が月面基地の共同建設を提案しても、あなたは興味を示さない。火星探査計画も、あなたの優先順位は低いように見える」
アルノーは続けた。
「あなたの目は、どこを見ているのですか? ソコルで地球低軌道を独占し、我々を下請けにすること……それが、あなたの最終目標なのですか?」
その言葉に、ヴォルコフの瞳の奥が一瞬、キラリと光った。それは、アルノーが決して見逃すことのできない光だった。憐れみでも、嘲笑でもない。はるか遠く、彼には想像もつかない地平線を見つめている者の光だった。
「最終目標?」
ヴォルコフは、窓の外に広がる灰色の空を見つめ、静かに呟いた。
「いいえ、アルノー副長官。ソコルは、目標ではない。ただの、最初の『道具』に過ぎませんよ」
その瞬間、アルノーは全てを悟った。
自分たちが必死に追いかけていた「ソコル」という名の蜃気楼は、この男にとっては、これから始まる壮大な建築計画のための、最初のシャベルかツルハシ程度のものに過ぎないのだと。
自分は、この男の真の狙いを暴きに来たのではない。ただ、その計画のスケールの巨大さを前に、己の無力さを確認させられるためだけに、この部屋に呼ばれたのだ。
背筋を、冷たい汗が伝った。ヴォルコフは何も語っていない。だが、その沈黙と、あの瞳の奥の光が、何よりも雄弁に、アルノーに敗北を告げていた。
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